2012年12月26日水曜日

元旦礼拝のご案内

さいたま市北区のキリスト教会


日付 2013年1月1日(日)
時間 11:00-12:00(通常より30分遅く始まります。お間違えの無いようにお願いします)
 ※どなたでもご参加いただけます。どうぞお越しください。

2012年12月18日火曜日

クリスマス集会のご案内

さいたま市北区のキリスト教会

クリスマス集会のご案内です。
どなたでもお越しください。
大歓迎いたします!!
さらに今年はこどものクリスマスも致します!
楽しいゲームや賛美、プレゼントもあります。
お友だちをさそってきてね。^^


癒しの十字架


マラキ書4章1~6節
 1 見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行なう者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。――万軍の主は仰せられる。――
 2 しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。
 3 あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行なう日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。――万軍の主は仰せられる。――
 4 あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を記憶せよ。それは、ホレブで、イスラエル全体のために、わたしが彼に命じたおきてと定めである。
 5 見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
 6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」

 今日は国政選挙が行われます。この国の在り方を問う大切な日です。景気対策、財政再建、原発、TPP、外交、領土問題、憲法改正、社会保障、年金、教育などなど・・・挙げればキリがないほど多くの争点があります。このように考えると本当に日本は問題だらけのような国がしてきます。しかも、このような問題は今に始まったことだけではなく、ここ何年もずっと争点である問題ですし、おそらく次の選挙にも沢山の問題が取り上げられるでしょう。しかし、このような問題は何も今の日本だけのことではありません。イスラエルにおいて預言者マラキが活躍した時代もやはり様々な社会的な問題があったようです。貧困が溢れ、弱者が虐げられ(格差・不平等社会、社会保障の問題)、祭司が不正を犯し(指導者の不正、リーダーシップの欠如)、雑婚の問題(宗教多元主義)など現代社会に通じる問題、いや、根本的な所では人類は何も進歩していないのではないかとさえ思えてきます。それは、「罪」の問題が絡んでいるからです。人類に罪がある限り、どんな主義主張や哲学、成熟した社会システムが整っていても、絶対にこの世からは問題はなくなりません。罪の問題に解決をしない限り、それは不可能な話です。全き平和な世界が訪れる時まで、即ち主の再臨の時までは不可能なのです。しかし、主の再臨の日、「その日」はこのような日でもあります。「見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行なう者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。――万軍の主は仰せられる。」(1節)主の裁きの前では、すべての不正、悪が暴かれ、一掃され、根も枝も残らないほど焼き尽くされます。
 では、私たち罪人は全く希望がないのでしょうか。聖書は「主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」(5節)と言います。「彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」(6節)この預言は、新約におけるバプテスマのヨハネの言葉から解釈する必要があります。それは主イエス様ご自身がバプテスマのヨハネを新約時代のエリヤとしているからです。「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。」(マタイ11:12ー14)「『エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています。』そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた。」(同17:11-13)そして、この新約のエリヤである、バプテスマのヨハネが指し示している方こそが、クリスマスの主人公である、イエス・キリストです。彼は、確かにもう一度来られ、この世を裁かれます。焼き尽くす炎によってすべての悪は滅び去ります。しかし、大切なのはイエス様の目的は、滅ぼすことが目的ではなく、救う事であり、我々とこの世を癒すことです。「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。」(2節)イエス様にこそ癒しがあります。癒しというのは十字架の贖いの業によってなされるのです。罪の問題を無視して癒しを捉えてはいけません。ヤコブは十字架と癒しの密接な関係をこのように語ります。「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。」(ヤコブ5:15-20)
 クリスマスにこそ私たちは十字架に目を留めるべきです。

2012年12月5日水曜日

誇りの冠

第一テサロニケ1章4~7節、2章19~20節
 4 神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。
 5 なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。
 6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。
 7 こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。

 19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。
 20 あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。

 今日(12月2日)からアドヴェントが始まります。アドヴェントは教会歴の聖アンデレ主日(11月30日)に最も近い主日から、クリスマスの前日までがアドヴェントの期間となります。アドヴェントには2つの意味があり、一つは「あらわれ」、もう一つは「来臨」という意味です。その主人公はもちろんイエス・キリストです。2000年前に神の独り子イエス・キリストが人の姿をとってこの世に「あらわれ」て下さり、十字架の死と復活により、死と罪の呪いを打ち破られ天に昇られました。そして、そのイエス様は再びこの地に、救いの完成と裁きのために、「来臨」されるのです。ですから、私たちにとって、このアドヴェントは単なるクリスマス集会のための準備期間などではなく、やがて来られるイエス様に目を向け、「主イエスよ、来てください」(黙示録20:20)と祈りつつ、いよいよ神の国の完成のために福音宣教に励むときなのです。
 テサロニケの手紙の中心的テーマは「再臨」についてですが、しかし、イエス様の「来臨」「再臨」について語る時、様々な偽りや惑わしの霊が働き、人びとを混乱させるのもまた事実です。「もうすぐイエス様が来るから、仕事をしてもしょうがない。」と言って怠惰な生活をし、他人に迷惑をかけていた人たちも当時は大勢いたようです。これは当時のみならず、現代でもそのような人たちはいますよね。そして、そのような人たちに対しパウロは警告をします。「兄弟たちよ。主イエス・キリストの御名によって命じます。締まりのない歩み方をして私たちから受けた言い伝えに従わないでいる、すべての兄弟たちから離れていなさい。どのように私たちを見ならうべきかは、あなたがた自身が知っているのです。あなたがたのところで、私たちは締まりのないことはしなかったし、人のパンをただで食べることもしませんでした。かえって、あなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。それは、私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに模範を示すためでした。」(Ⅱテサロニケ3:6-9)むしろ、そのような人たちに惑わされることなく、勤勉に、模範的に歩みなさいと語ります。これは修行や鍛錬によって到達する境地では決してありません。努力目標でも、律法でもありません。力と聖霊と強い確信によって伝えられた「福音」によって、あなたがたが「召された」ことのゆえに可能なものです。そして、その「召し」に留まり、惑わされることなく、勤勉に、また忍耐を持って主の再臨を待つ者に対して、主はこのように語られるのです。「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。」(19-20)
 終わりの時代には苦難があります。敬虔であればあるほどそれから逃れることはできません。戦いがあります。しかし、その中でも勝利するのが真のキリスト者です。「召し」を自覚し、聖霊に満たされ、福音の力を信じることです。最後に待っているのは栄光の冠、誇りの冠です。

2012年11月26日月曜日

試練の中でも喜ぶ信仰

ペテロの手紙第一4章12~19節
 12 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、
 13 むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。
 14 もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
 15 あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行なう者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。
 16 しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。
 17 なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。
 18 義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。
 19 ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。

 キリスト者であるが故に、受けなければならない苦しみがあります。それは聖書の価値観と世の価値観に違いがあるからです。しかし、神の御心に沿った「苦しみ」「試練」は、「何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむこと」(12節)も、「恥じること」(16節)も、動揺する必要もありません。むしろ、喜びなさいと言うのです。それは、試練を通してあなたのうちになされる以下のことに目を留めましょう。
 ①「キリストの苦しみと愛を知ります」。キリストの名のために非難を受けるとき、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、私たちの上にとどまってくださり(14節)、キリストの苦難、十字架の痛み、愛の深さを知るのです。十字架経験が深まれば深まるほど、より信仰が確かなものになり、強い信仰者へと変えられるのです。
 また、②「聖別される」のです。信仰者としての試練は、燃えさかる火のような試練であると言います。刀を鍛えるときにも、熱い火の中を必ず通しますが、私たちも聖霊の火によって霊的に訓練されるのです。そして、自らの力では解決できない罪の問題にも解決が与えられます。「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、・・・患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:2-5)試練を通して、人格が整えられ、人の痛みが分かる人になり、聖霊によって注がれた神の愛を人々に施す人になるのです。
 ですから、例え人々から理不尽な責めを受けたとしても、自らの力で決して復讐したり、裁いてはいけないのです。大切なことは、③「神の裁きに委ねる」ことです。神様が公義をもって裁いてくださるのです。「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。」(17‐18節)
 そして、信仰の戦いを最後まで守り抜いた者には、主なる神様が④「栄光の冠を与えて下さる」のです。 「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(5:10)「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」(1:7)
 今、あなたは信仰を持ったがゆえに戦いを経験していますか。日本の国でクリスチャンとして生きることに困難を覚えていますか。誰かから霊的な攻撃を受けていますか。どうぞ愛する聖徒のみなさん!!「あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから」喜びましょう。そして、「神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せ」しましょう。

2012年11月19日月曜日

召天者記念礼拝


「死は勝利にのまれた」

ヨハネの黙示録21章1~4節
 1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
 2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
 3 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
 4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

コリント人への手紙第一15章50~58節
 50 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
 51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
 52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
 53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
 54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。
 55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
 56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
 57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
 58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

 「死」は誰にとっても恐ろしいもの、忌み嫌われるもの、悲しいものです。それはなぜでしょう。創世記には人間が罪を犯し神様から離れた結果、人類に死が入り込んだと記されています。すなわち、このように言う事が出来ます。「死」というのは、神様から離れている状態、神様が共におられない状態だということです。だから、人類にとっては一番の悲しみであり、不幸であり、恐れなのです。人々の心に神様がいないから、神様を拒否しているから、神様はいないと否定しているから、死は恐ろしいものでしかないのです。さらに「血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」(Ⅰコリント15:50)罪によりやがて朽ち果てていくしかない人間は決して神の国(天国)を相続できないというのです。
 では、どうすれば神の国を相続できるのでしょうか。答えは「死」を乗り越えるほかありません。「死」に勝利するしかありません。それは罪人である人間には絶対に出来ないことです。罪と死の呪いを打ち破り復活したいのちを頂く以外に方法はありません。それは、神の独り子イエス・キリストによって与えられます。2000年前に十字架の死から復活したイエス様は天に昇られましたが、再びこの世に来られます。そのとき以下の出来事が起こります。「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。」(Ⅰコリント15:52-54)主を信じ、復活のいのちを持つ者たちは、朽ちることのない栄光の身体が与えられるというのです。しかも、その者たちの行きつく先は、完全なる神が治められる安息の世界だというのです。恐れや嘆きはなく、感謝と賛美のみがある世界です。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3-4)まさに、平和の神である唯一の神様が治める場所が天国なのであり、そこが私たちの目指すべき所であり、復活のいのちを持つ者に対する約束の地なのです。

2012年11月11日日曜日

主の心が私の心です


マタイの福音書20章29~34節

 29 彼らがエリコを出て行くと、大ぜいの群衆がイエスについて行った。
 30 すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」
 31 そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」と叫び立てた。
 32 すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」
 33 彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」
 34 イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。

 過越しの祭りを前にして、イエス様はいよいよご自身の働きの完成されようとしておられます。しかし、それは、我々と同じ弱い肉体をもって世に来られたイエス様にとっては喜ばしいものではありませんでした。なぜなら、人類の罪の身代わりに、不当な裁判にかけられ、あざけられ、さげすまれた上に十字架にかけられることを通して救いの業を完成されるということだからです。そのような苦難を前にして、普通の人間であれば、他の人を省みる余裕など全く無いはずです。自分のことだけで頭が一杯なはずです。しかし、イエス様はそのような状況のなかでも、愛の眼差しを向け、救いの手を差し伸べます。誰に対してでしょうか。二人の目の見えない乞食に対してです。イエス様は彼らの声を聞き、歩みを止められます。そして、彼らを憐れみ、こう尋ねられます。「わたしに何をしてほしいのか」。彼らは答えます。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」ここで、主であるイエス様の思いと盲人たちの思いが一つとなります。 盲人たちを癒されたい主の思いと癒してほしい盲人たちの思いが一つとなったのです。そこでイエス様は彼らの目にさわられ、彼らは見えるようになりました。さらに癒された彼らは、すぐにイエス様に従いついて行ったのです。神の国の国民にとって大切なことは、神様と私たちの思いが一つとなることです。さらに言えば、神様の思いが、私たちの思いとなることです。それとは逆に、私たちの思いが、神様の思いであると思い込むのは大変危険であり、盲信的な信仰といえましょう。それが、この群衆のうちに見ることが出来ます。群衆は恐らく、過越しの祭りのため、エルサレムに上ろうとしていた人たちです。つまり彼らは神を信じる信仰を持った人たちだということができます。彼らもまたイエス様に対して期待をしていました。それは、イエス様が奇跡を行い、イスラエルの国をローマの支配から解放してくれる、かつてのダビデやソロモン王国時代の繁栄を取り戻してくれるのではないかという期待、信仰があったのではないでしょうか。しかし、その期待は見事に裏切られます。イエス様は、権力者、宗教家たちの策略によって捕えられてしまいます。自分達の地位が脅かされるのではないかという恐れから、自己保身のためにイエス様を亡き者にしようとしたのです。そのことに群衆はイエス様に失望し、怒りを表します。そしてついにはイエス様を「十字架につけろ」と叫ぶのです。このような自己中心的な信仰は、もはや信仰とは言えません。むしろ罪となってしまうのです。いくら熱心であったとしても、敬虔に見えていたとしても、自己中心的な信仰は恐ろしく、また非常に「たちが悪い」ものです。私たちが願うべきは、例え苦難の道を通ることがあっても、神と人々に仕え、この世に対し祝福の管となるイエス様の生き方です。
  

2012年11月10日土曜日

使える人と仕える人

マタイの福音書20章20~28節

 20 そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。
 21 イエスが彼女に、「どんな願いですか。」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」
 22 けれども、イエスは答えて言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます。」と言った。
 23 イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」
 24 このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。
 25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
 26 あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
 27 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
 28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」

 「使える人」と「仕える人」。今日のテキストのタイトルです。この人は「使えるなあ」とか、或いは逆に「使い物にならないなあ」という言葉を良く聞きます。自由主義経済、競争社会は極めてシビアです。使える人は成功者であり、使えない人は敗北者です。ですからこの世は皆が生き残るために、取り残されないために必死です。切られないように上を目指すのです。しかし、聖書が語る神の国においては「使える」ことより、「仕える」ことがより重要だと語ります。
 イエスの弟子であるゼベダイの子(ヤコブとヨハネ)の母親はイエスの所に来て、「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」とひれ伏して懇願します。神の国の意味を、この母親は理解できていませんでした。母親だけでなく、ふたりの息子も、またこの抜け駆けをしようとしたことに腹を立てた他の10人の弟子たちも同様に理解できていませんでした。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。」神の国は、競争社会でもなければ、上昇志向が無ければ切られてしまう世界ではありません。神の憐みの中で、恵みによって生きる世界です。最も社会の底辺にいるものにさえも光が当てられ、癒され、立ち上がることができるのが神の国です。どうしてそれが可能なのでしょうか。それは、神の国を治めておられる王が、最も謙遜で、低い所に下されたお方だからです。仕えられるためではなく、仕えるために来られたお方だからです。罪により失われ行く魂を、永遠のいのちへと導くため、自分のいのちさえも捧げられたお方が治めておられるからです。その王なるお方が私たちに語るのです。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。」「使える者」より、「仕える者」でありなさい。これこそが私たちが歩むべき神の国の生き方です。

2012年10月23日火曜日

赦しは十字架から

マタイ18章21~35節

 21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
 22 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。
 23 このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
 24 清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。
 25 しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。
 26 それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。
 27 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。
 28 ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。
 29 彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。
 30 しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。
 31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。
 32 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。
 33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』
 34 こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。
 35 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」

 「仏の顔も3度」という言葉がありますが、当時のイスラエルにおいても3回までは隣人に罪の赦しを請うことが出来るというラビ(律法の教師)の教えがあったそうです。「7度まで赦すべきでしょうか」とイエス様に質問したペテロは当時のそれよりも遥かに寛大な数を示しました。実際、同じ相手から不利益を3回どころか7回受けても赦すことができるとするならその人は間違いなく寛大な人でしょう。しかし、イエス様は「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまで(赦しなさい)」と言われました。ここでイエス様は借金の返済に関するひとつの喩えを語られます。23節から35節をご覧ください。1万タラントは今の日本のお金に換算するなら数百億円という莫大な額です。しもべが自分も妻子も持ち物全部も売って、さらにお金を工面したとしても絶対に返すことはできない額でしょう。 それでもこのしもべは、「主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』」(26節)と言いました。主人もいかに彼が謝罪して、誠実な態度で返済の約束をしたところでも、返済不可能なことは十分に分かってます。しかもその借金は自分が負わなければならないことも分かっています。それにも関わらず、主人はしもべを赦すのです。なぜでしょうか。彼を見て「かわいそうに思った」(27節)からです。憐れみをかけたのです。聖書で「憐み」と言う言葉は、「内臓」という意味があります。まさに内臓が引き裂かれるように心が痛むこと、日本語なら「断腸の思い」とでも言えるでしょうか。これは、まさにイエス様の心を表わしています。私たちも「罪」という自分の力では絶対に返すことが出来ない借金を背負っています。どんなに徳を積んで、善行をしても、また罪を犯してします。罪の奴隷とも言える存在、それが私たち人間です。イエス様はその罪に解決を与えるために、自らが肩代わりをしてくださいました。即ち、罪を代わりに背負ってくださり、罪の赦しの生贄として十字架で死んでくださったのです。イエス様は体も心も、そして父なる神との関係までもすべてが引き裂かれたのです。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マルコ15章34節)とはまさにそういうことです。
 ですから私たちはこのイエス様によって赦されている存在なのです。そんなイエス様が「七度を七十倍するまで」、要するに、とことん赦しなさい、裁いてはいけない、復讐してはいけないと言われるのです。しかし、そのように赦されているものであるのに、自分が他人から受けた不利益や を赦すことができないとするならばどうなるのでしょう。「『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」(32~35節)と言われます。
 私たちが十字架によって赦されているという事実に立つときに、また他人の罪をも赦すことが出来るようにと主は願っておられます。赦しの根本は十字架にあります。

2012年10月15日月曜日

幼子のように

ルカの福音書18章15節~17節

 15 イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった。
 16 しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
 17 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」

 イエス様のもとに子どもたちが親に連れられてきました。新改訳聖書では「幼子」、新共同訳聖書では「乳飲み子」と記されています。どれくらいの数の子どもたちかは分かりませんが、イエス様の人気を考えると、子どもたちの声は相当に賑やかなものではなかったのかと推測できます。この様子を見た弟子たちは、幼子たちがイエス様の元に来たのを歓迎しませんでした。イエス様の話の邪魔になると考えたのか、うっとうしくて働きが妨げられるとでも思ったのでしょうか。「それを見てしかった」とあります。しかし、イエス様はそのような弟子たちの態度を喜ばれませんでした。並行記事のマルコの福音書10章14節には、「イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。『子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。』」と記されています。
 「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」(16-17) 「子どもたち」であっても勿論彼らは罪人です。嘘もつくし、わがままも言うし、自分勝手な性質はやはりアダムの子孫であることを示しています。しかし、ここで言う神の国に相応しい「子どもたちのような者」とは、素直さ、純粋さ、正直さと言った心を持つ者と言う事です。この記事の前後には、自らを義人だと自認するパリサイ人とやはり自分の正しさを誇っている金持ちの役人の記事が描かれています。神の前においてもなお、自分には過ちはない、罪人ではない、むしろ、他人の罪を指摘し、批判する大人たちには神の国は相応しくないと言うのです。子供のように素直な心で、主の前に自らの罪を告白し、十字架による贖いの業を信じ、従う者でなければ、決してそこに入ることはできないのです。

2012年10月11日木曜日

オンギジャンイゴスペルコンサート2012

さいたま市北区のキリスト教会



今年もやってきます、オンギジャンイコンサート。
美しいハーモニーと聖霊による感動がきっとあなたの心を満たすことでしょう。
ご家族、お友だちをお誘いの上どうぞお越しください。
入場無料です。駐車スペースもございますので、お車でお越しになっても大丈夫です。
お待ちしております!!!

自分を高くする者、自分を低くする者


ルカの福音書18章9節から14節
 9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
 10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
 11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
 12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
 13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
 14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

 どんなに正しい人でも、評判の良い人であっても、罪人である私たちは、自分で自分を義とすることはできません。「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10) このパリサイ人は確かに本人が言うように、他人をゆすったり、不正をしたり、姦淫をしたりする人間ではないのでしょう。しかも、宗教生活においてもかなり自分に厳しい人であると言えそうです。しかし、聖書には「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ3:20)とあります。ですから、そのような意味で、彼の祈りの根本的な誤りは、「罪の意識」即ち、悔い改めが全くないのです。人と比べて、いかに自分が正しいのか、神の救いに相応しい人間なのかということを訴えているに過ぎません。これは、もはや祈りではありません。単なるうぬぼれです。
 一方、取税人はどうでしょうか。パリサイ人の言葉を借りれば、彼は「人をゆすり、不正を行い、姦淫し、しかも、全く宗教的生活をしていない人間」でしょう。しかし、彼には、「罪の意識」があったのです。そのことを本当に心から悔いて、嘆いているのです。神様の前にあまりにも恥ずかしく、「・・・遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて」彼はこう祈りました。「『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」。
 結論はこうです。「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」主は憐れみ深いお方です。あなたが誰であれ、遜り、自らを低くする者には、どんな人であっても救いの冠を与えて下さいます。「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(Ⅰペテロ5:5~6)

2012年9月30日日曜日

ただ、子であるから


ルカ15章11節から32節

 11 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。
 12 弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。
 13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
 14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
 15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
 16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
 17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
 18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
 19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
 20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
 21 息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
 22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
 23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
 24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。
 25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、
 26 しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、
 27 しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
 28 すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
 29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
 30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
 31 父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
 32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

 以前ある方にこのたとえ話をし、感想を求めたところ、このような反応が返ってきました。「この弟は親の金でやりたい放題して、勝手に貧しくなった。どう見ても自業自得なのに、父の所に帰ればよいと考えるのはあまりにも虫が良すぎる。しかし、それよりももっと問題なのは父の方だ。まだ未熟で何の考えもない息子に対して莫大な財産を渡してこうなることは分からなかったのか。しかも、帰ってきた息子を無条件で受け入れる。普通なら勘当だ。父も弟もあまりにも甘い。」いかがでしょうか。皆さんもそう思われますか。
 ここでは父は天の父なる神を表わし、弟は取税人や遊女などの罪人、兄は律法学者、パリサイ人を指しています。しかし、この弟もまた兄も私たちの姿ではないでしょうか。神は創世記1章26節で「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられました。人間に神の性質に似た素晴らしい霊的権威を与え、さらにこの地上を支配させる特権まで無条件でお与えになられました。この世を神様の喜ばれる素晴らしい、愛に満ちた、平和な世にして欲しいという願いを込めて。しかし、現実の世界はどうでしょう。この世は人間の醜い罪と欲によって、争いと対立、殺戮と戦争が絶えません。環境は破壊され、汚染され続けています。地球上の食糧をすべて集めれば十分にあるのに、一部の人にだけ富が集中して、世界ではおよそ7人に1 人、約9億2,500万人が飢餓に苦しんでいると言います。
 さらに、この兄の姿も同様です。この兄は父との関係が遠く離れていることが分かります。「『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』 」(29-30節)兄は父に対し、「あなた」と言う言葉を使っています。29節の「おとうさん」もギリシャ語の原文では「あなた」です。ここでは「あんた」というニュアンスに近いでしょう。兄にとって父は、尊敬や愛の対象ではなく、「仕え」「戒めを守る」対象であり、非常に冷めた関係を見ることが出来ます。これもまた私たちと天の父なる神との関係とも重なります。キリスト教は色々と制約があって面倒だ。ああしてはならない。こうしてはならない。何か不自由な生活を強制されているようだ。こんな神なら信じたくないし、要らない。
 しかし、天の父なる神は、そんな私たちに「子よ」と呼び掛けられるのです。例えあなたがどんな霊的な状態であったとしても、あなたをご自身の子として、いつもともにおられることを望まれ、帰ってくるのを待っておられます。そして心から歓迎してくれるのです。あなたが神に立ち返るとき、天において盛大な祝宴が開かれるのです。今、どうぞ主の懐に帰ってきてください。

2012年9月25日火曜日

主は良い牧者


エゼキエル34章11節から16節

 11 まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。
 12 牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。
 13 わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。
 14 わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。
 15 わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。――神である主の御告げ。――
 16 わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。

 羊はイスラエル人にとって最も身近であり、生活を支えていた動物でした。その性質は、おとなしく、素直で、従順ですが、反面、愚かで、弱く、迷いやすい人間を表す形容としても用いられています。ここで言う羊とは神によって選ばれ、祝福の民として、神の守りの中にいながらも、神に背き、バビロンに捕囚されたイスラエルの民の姿を表わしています。そんな愚かな羊の姿として描かれている民でありましたが、神は彼らを「わたしの羊」と呼んでいます。そして、主はこのように語られます。「わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。」(16節)国を奪われ、神殿を破壊され、異教の国での暮らしを余儀なくされている、まさに失われた状態である彼らに対し、神はどこまでも憐れみ深く、「捜し」、「連れ戻し」、「包み」、「力づけ」、「敵を滅ぼし」、「正しいさばきを持って養う」と語れるのです。愛と癒しと義と聖であられる神の姿をここに見ることができます。あなたが今主なる神に求めるならば、主イエスの御名を呼ぶならば、神はご自身の姿を表わして下さいます。

2012年9月10日月曜日

最高の捧げもの

ルカ7章36~50節

 36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。
 37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、
 38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。
 39 イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。
 40 するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。シモンは、「先生。お話しください。」と言った。
 41 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
 42 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
 43 シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。
 44 そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。
 45 あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。
 46 あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。
 47 だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」
 48 そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。
 49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」
 50 しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

神様の目で見るならばすべての人は平等です。すべての人は神によって創られたという点で平等であり、良い人にも悪い人にも雨を降らせるといった点でも平等であり、すべての人のために御子が十字架にかかられたという点でも平等です。しかし、現実社会には平等でない現実があります。富める者と貧しい者、平和ボケしている国に生れた者と平和と言う言葉を知らない国に生れた者、幸せな家庭に生まれた者と争いが絶えない家庭に生れた者・・・ しかし、そのような社会を作り出してしまったのは、もちろん神ではなく人間です。神を呪うのではなく、私たちの生き方こそ問われなければならないのです。
本文に登場する二人の人物、パリサイ人シモンと罪深い女、そのいずれも褒められる人物ではないことがわかります。人を見下し、自分を義とし、外見は敬虔に神に仕えていると言っておきながら、神の独り子を敬わないシモン。そして罪深い女もやはり、その町では知られた遊女であり、男に媚を売り、聖霊の宮である自分のからだをもって神の栄光を現わすどころか、かえって自分の身を傷つけ、罪の生活に陥っていた女。しかし、この二人には決定的な違いがありました。それは身分の差でも性別の差でも、仕事の質の差でもありません。「自分が罪人なんだ」との自覚の差です。神様の目で見るならば、すべての人間は罪人です。「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)のです。ですからこの二人はいずれも神の目から見れば罪人ですが、シモンはその自覚がありませんでした。イエス様の足を洗うことをせず、口づけもせず、頭に油を塗ることをしませんでした。一方、女は罪人であるとの自覚がありました。涙を流して、自分の髪の毛でイエス様の足を洗い、口づけをし、香油を塗りました。香油は当時大変高価なもので、香油を失うことは大変な損失であり、「貧困の道」とも言われていました。しかし、たとえ自分が貧しくなろうとも、そのすべてに勝る価値をイエス様のうちに彼女は見出し、すべてを捧げたのです。
イエス様は平等に憐み深く、また遜る者に対して平等に救いを成し遂げてくださるお方です。この二人の罪人はともにその機会がありました。しかし、「あなたの罪は赦されています。」(48)と救いを宣言されたのは女の方でした。そして優しく、また権威をもってこう語られました。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」(50)罪人であるとの自覚が深まると、恵みもまた増し加わるのです。そして、イエス様にすべてを捧げて、謙遜にお仕えする者になるのです。

2012年8月28日火曜日

収穫の主に委ねなさい

マタイ13章24~30節、 36~43節
 24 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
 25 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。
 26 麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。
 27 それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』
 28 主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』
 29 だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
 30 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」

 36 それから、イエスは群衆と別れて家にはいられた。すると、弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください。」と言った。
 37 イエスは答えてこう言われた。「良い種を蒔く者は人の子です。
 38 畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。
 39 毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。
 40 ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。
 41 人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、
 42 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
 43 そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。

正義が存在するところには、必ず悪もまた存在します。最初から悪であることを願う人間はいませんが、しかし罪人である人間に対し、悪魔が巧妙に働きかけ、いつの間にか、良い麦が毒麦へと変わっているということがあります。しかも、時が経ち、実が結ばれるまでは、良い麦と見分けがつかないのです。
しかし、毒麦であるこの世の悪を引き抜いたら世界は本当によくなるのでしょうか。自由が保障されいる国であれ、戒厳令が執行されている国であれ、悪はどこの国でも存在するのです。それは悪魔サタンが存在している限り我々の力では、我々の義ではどうにもならないのです。我々の義とは、イエス・キリストの義のみであり、再臨の時にその義によって、完全な審判がなされます。我々が成すべきことは、自らの義で人を裁くことではなく、この世の悪を滅ぼすことではなく、イエス様の福音の光に照らされて、御霊に満たされて、太陽のように輝くことです。

2012年7月30日月曜日

コリアンフェスティバル2012のご案内

アンニョンハセヨ!!
今年もやってきました。コリアンフェスティバル。
8月4日(土)18:00から20:00です。
韓国料理に、ゴスペルダンス、演劇など盛りだくさんです。
お友だちをお誘いの上どなたでもお越しください。
お金は一切かかりません。
お待ちしています!



2012年7月23日月曜日

神の国がここに

マルコ4章1節~9節
 4:1 イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。
 4:2 イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。
 4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
 4:4 蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
 4:5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
 4:6 しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
 4:7 また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。
 4:8 また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」
 4:9 そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」

福音書に見られるイエス様が語られたメッセージの中心、それは「神の国」だと言っても過言ではありません。何よりも、主イエス様は、「時が満ち、神の国は近くなった」(マルコ1:15)という宣言をもって公生涯を開始し、御自身の派遣が神の国を宣べ伝えることにあると語ってます。さらに、イエス様の弟子たちの仕事も神の国にかかわるものであり、同じ主題を宣べ伝えました。
神の国は、「『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:21)と主は語っておられますが、しかし、神の国は単に心の在り方、観念を語っているのではありません。イエス様が語る神の国は、きわめて具体的、実存的なものなのです。人生の全領域、物事の全領域、万物の秩序に至るまで、現実世界の中に突入してくるものであり、そしてそれは必ず大いなる祝福をもたらすものです。しかし、その神の国の祝福が自らのものになるかならないかは、私たちの信仰にかかっているのです。根が浅かったり、世のことのみに関心が良き、いばらが伸び放題であるなら実を結ぶことができません。良い地に落ちた時に30倍、60倍、100倍の祝福があるのです。だからこそ主は語られるのです。「聞く耳のある者は聞きなさい。」と。イエス様の十字架による贖いにより、私たちはだれでも神の国の国民になる資格があるのです。

2012年7月11日水曜日

愛と励ましの便り

エペソ人への手紙6章21節から24節

  21 あなたがたにも私の様子や、私が何をしているかなどを知っていただくために、主にあって愛する兄弟であり、忠実な奉仕者であるテキコが、一部始終を知らせるでしょう。
  22 テキコをあなたがたのもとに遣わしたのは、ほかでもなく、あなたがたが私たちの様子を知り、また彼によって心に励ましを受けるためです。
  23 どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。
  24 私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。

テキコは、パウロの手紙をエペソの教会の人たちに届けた人物です。彼のした働きは小さなものでした。しかし、彼のような忠実な奉仕があって教会は建てられるのです。忠実な、謙遜な奉仕を通して神の国は建設されていくのです。「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」(Ⅱテモテ2:2)
いや、それどころか彼のような忠実な奉仕が無ければ、神の国は決して作られないのです。主は、律法学者、パリサイ人たちを「わざわい」「偽善者」と呼び、「・・・はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。」(マタイ23:23口語訳)と指摘されました。実に主が求めておられるのは、地味であっても、小さな事にも忠実な奉仕者です。「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」(ルカ16:10)
そして、彼のような存在を通して、教会の交わりはさらに豊かなものとされます。「平安と信仰に伴う愛」が溢れるのです。なぜならそれは最も謙遜で、十字架の死にまでも忠実に従った「主イエス・キリストから」来るものだからです。

2012年7月3日火曜日

福音は勝利の宣言

エペソ人への手紙6章19~20節
 19 また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。
 20 私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。

福音と言う言葉は、もともと戦勝報告を意味する言葉です。キリスト者にとって霊的戦いの結末は必ず勝利で終わるのです。ではキリスト者は何に対して勝利を得ているのでしょうか。
一つ目は罪の負債に対する勝利です。コロサイ書2章13~14節に「あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」とあります。悪魔サタンは私たちのどうにもならない罪の問題を通して私たちの存在を責め、混乱させ、動揺させてきますが、主は十字架で勝利を取ってくださいました。
二つ目は孤独に対する勝利です。アダムの堕落によって彼らはエデンの園を追放されて以来、人類にとって孤独は大きなトラウマとなってしまいました。しかし、聖書は語ります。ヘブル13章5節「主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』」、ローマ8章31節「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」同8章33節「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」
三つ目は人類にとって決して解決不可能な問題、死に対する勝利です。Ⅰコリント15章53節~57節「朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
キリスト者はこの勝利を世に向かって大胆に宣言することが出来るのです。真のキリスト者に敗北の二文字は無いのです。

2012年6月26日火曜日

祈りは勝利の旗

エペソ人への手紙6章18節
 18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

祈りは神様によって与えられた霊的な武器です。出エジプト記17章に、イスラエルの民が出エジプトの荒野生活の道中、レフィディムにおいてアマレク軍と戦った記事があります。モーセは、アロンとフルとともに丘の頂に立ち、モーセが手を上げているとイスラエルが優勢になり、手を下ろすとアマレクが優勢になりました。疲れてきたモーセを石の上に座らせ、両側からモーセの勝利するまで手を支え続けたのが、アロンとフルでした。そしてその場所はアドナイ・ニシ「主はわが御旗」と名づけられました。
「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。」聖霊様はまさにアロンとフルのように、私たちの祈りを支えてくださいます。どんなときにも祈ることができるように、神の御心に叶った祈りが出来るように、忍耐を持って待ち、委ねることが出来るように、聖霊様が助けてくださいます。「目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」(ローマ8:24-27)
御霊に満たされた祈りこそ、霊的な戦いに勝利するためには不可欠なものです。

2012年6月21日木曜日

きよい手を上げて

父の日礼拝

テモテへの手紙第一2章8節
 8 ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。

「手を上げる」という言葉には、手を上に上げるという意味のほかに、降参する、また暴力を振るうという意味もあります。最近の社会問題の一つにDV(ドメスティックバイオレンス)の問題を挙げることができるでしょう。先日TVのある番組でDVの特集を組んでいました。その一つが妻に対し暴力を振るった夫とカウンセラーとのやり取りでした。その中でカウンセラーが夫に「DVをして得たものと失ったものはなんですか」と質問したところ、「得たものは・・・一時的な征服感、相手を支配できたことに対する快感で、失ったものは、家族です」と答えていたのが印象的でした。

聖書が語る「手を上げる」姿とは、もちろん暴力ではありません。きよい手をあげるということです。きよい手とはどんな手でしょうか。怒ったり、ののしったりして、相手を裁く手ではありません。助けを求めている人の手を払いのける冷酷な手でも、不正や不義を行う汚れた手でもありません。相手を赦し、助け、いたわる愛の手です。まさにイエス・キリストが示して下さった手です。私たちの罪と咎を赦すために釘打たれた愛の手です。復活した事実を信じようとしなかった弟子のトマスに対し現れた主は「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」とご自身の傷ついた手を示されました。その手はまさに愛と赦しに富んだきよい手でした。その手に触れられたトマスは「私の主。私の神。」とイエス様の前に心ひれ伏し、礼拝しました。
きよい手を上げて祈る男性こそ聖書が語る男の姿、父の姿です。

2012年6月10日日曜日

救いの確信はありますか

エペソ人への手紙6章17節
17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

この世の暗闇の支配者である悪魔サタンは、キリストの弟子である信仰者を容赦なく揺さぶってきます。不信仰と疑いの種を植え付け、霊的に堕落をさせようと攻撃してきます。特に自分の思ったようにことが進まない時に、神に対する不信を与えたり、神の教会に対する不満や批判を増長させてきます。そのような悪魔サタンの攻撃に信仰者は無力なのでしょうか。何もできずに飲み込まれていくのでしょうか。
ここで聖書は救いのかぶとをかぶり、聖霊が与える神の御言葉という剣を受け取りなさいと語ります。言うまでもなく、かぶとは頭にかぶります。頭は体の中で最も大事な部分です。頭がやられては、どんなに体が頑丈でも動かすことはもうできません。そうです、私たち信仰者が最もやられてはいけない部分、頑丈で無ければならない部分は、「救い」という事実です。イエス・キリストの十字架の贖いにより、罪赦され、きよめられ、さらにイエス様の復活を信じる信仰によって、私たちに永遠の祝福のいのちが保証されているという、この事実にしっかり立つということです。そして、この事実を裏付け、確信させるものこそが、御霊によって与えられた御言葉です。この自らの内にある「救いの事実の確信」と「御言葉」がしっかりと揺るぎないものとして留まっているならば、たとい火のような試練があったとしても、信仰を揺さぶる事態が生じたとしても、悪魔の巧みな惑わしを受けたとしても、勝利することができるのです。あなたは救いの確信がありますか?救いの御言葉を握ってますか?

2012年6月6日水曜日

PRAY TOGETHER

ローマ人への手紙15章30節

30 兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。

キリスト者として、愛の具体的な行為のうちの一つがとりなしの祈りと言えるかもしれません。まず、相手に対して関心がなければ、力を尽くして祈ることはできません。さらに、自分自身が犠牲を払う必要もあります。祈りのための時間を割くことであったり、また、自分のやりたいことや自分のための祈りを後ろ回しにすることも考えられるでしょう。ですから、力を尽くして執り成すためには、何よりもここでパウロが語っているように愛なるお方「イエス・キリスト」によって、また「御霊の愛」によって満たされなければなりません。御霊を受けなければなりません。御霊を受けていないキリスト者は、不信仰や不従順な態度、また、神と人への愛も冷え、祈りも弱く形式的、口では立派なことを言ってはいても、律法的に、あるいは破壊的に人を批判したりします。しかし、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:5)とあるように、聖霊を受けたキリスト者の祈りは、神の愛に支配されているので、もはや無力ではなく、熱心に、また涙をもって心から神に執り成します。そして、ここで大切なことは、それが単独ではなく、「共同」の祈りであることです。「私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。」とあるように、「私とともに」力を尽くして祈ることです。このような御霊に満たされたキリスト者の共同の祈りがささげられる群れこそが、美しく麗しい教会の姿です。

2012年5月12日土曜日

母の日礼拝のご案内

5月13日は母の日礼拝です。
時間は通常通り10時半からです。
母への感謝と共に、喜びを持って神様に礼拝を捧げましょう。

戦う相手を間違ってはいけません

エペソ6章10~14節
 10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
 11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
 12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
 13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
 14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め(なさい)。

エペソの手紙の締めくくりは、「霊的な戦い」について書かれています。それは、敬虔に生きることを願うすべてのクリスチャンにとって決して避けては通れないことだからです。最近至る所でよく教会や牧師の批判をする声を聞きます。確かに責められる方にはそれなりの問題があるのでしょう。悔い改めなければならないことはしっかり悔い改める必要があります。しかし、相手を批判することで自らが正しいことをしているだなどと錯覚してはいけません。私たちが真に戦うべき敵を間違ってはいけません。「 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(12節)悪魔サタンの策略に乗って、裁き合い、罵り合うなら、それはサタンの思うつぼです。クリスチャンは神の武具を持って、この悪魔サタンと戦うのです。神の武具の第一番目は、真理の帯です。厳密にはこれは武器や防具ではありません。鎧の下に着る服を締めるものです。言わば、戦いの前の心構えを表わします。これまで学んできたように、一致と従順な信仰を決して忘れてはいけません。人の義ではなく真理の御言葉こそに権威があることを忘れてはいけません。そして、真理そのものであるイエス・キリストからそれてはいけません。

2012年5月4日金曜日

幸せな上下関係

エペソ6章5節~9節
 5 奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。
 6 人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、
 7 人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。
 8 良いことを行なえば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。
 9 主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。

従順の教えの最後は、奴隷と主人との関係です。奴隷と言っても、この当時の奴隷は決して人格を無視されたモノのような存在ではなく、社会の中で保護され、家族の一員としてみなされるケースさえもありました。ですから、ここでの主人と奴隷はいわば雇用者と被雇用者の関係、また上司と部下の関係などと置き換えて考えてみれば良いでしょう。しかし、やはりここでも大切なのは、主人であれ、奴隷であれ、それぞれが主の前に謙遜に仕える者であることを忘れてはいけないということです。私たちが倣うべき主イエス様は、神の子でありながらも、天の栄光を捨てられ、人としてこの世に来てくださいました。ピリピ書2章には「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」とあります。ですから、主人は、主人の身分であるからと言って奴隷に対し、その権力を振りかざし、おどしたり、虐げるようなことがあってはなりません。また、奴隷の身分の者も、自分が評価され、待遇を良くしてもらうために、主人の前だけ、主人に見えるように熱心に仕えているように振る舞ったり、おべっかやよいしょと使うことがあってはいけません。いくらうわべは従順であっても、心の中では軽蔑し侮辱していてはなにもなりません。自分の利益や出世のために主人の目をいつも気にしているとするならば、これは大変不自由な生き方です。言わば、精神的に自ら進んで奴隷状態に成り下がっているのです。「良いことを行なえば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。」(8節)の御言葉にあるように、誰であっても、どのような身分、立場であっても、謙遜に仕える者には、主が差別なく全く公平に報いて下さいます。

2012年4月25日水曜日

幸せな親子関係

エペソ人への手紙6章1~4節
 1 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。
 2 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、
 3 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。
 4 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。

出エジプト記20章にモーセの十戒が記されていますが、その構成は、第一戒から第四戒までは神と人との関係について、第五戒から第十戒までが人間関係についての戒律となっています。本日の説教箇所でもあるエペソの手紙6章2~3節に引用されている御言葉は、その内の第五戒、すなわち人間関係における第一番目の戒めです。子どもにとって尊敬すべき、従うべき対象はまず誰よりも両親です。コロサイ書3章20節でも「子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。」と記されています。また主イエス様も、「・・・ナザレに帰って、両親に仕えられた。」(ルカ2章51節)とあるように、イエス様も両親を心から愛し、仕え、従いました。このように両親を敬い、従うことは、幸せなことであり、祝福なのです。
しかし、一方で親も子を育て、教育することが求められます。親は子を愛し、受け止め、そして人生の良き模範とならなければいけません。特に大切なのが父親の役割です。「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」(4節)母ではなく、父です。新共同訳では「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」とあります。単に父の権威を振りかざして、厳しくしつけるのではなく、主イエス様がされたように、子を養い、教育し、諭しなさいというのです。その根底には深い愛情が必要です。子のためにいのちを捨てる覚悟が必要です。例え子どもが失敗しても、上手くいかなくても、親の理想とはかけ離れていても、主イエス様の愛情を持って、忍耐を持って、教え、訓戒することが大切です。このような親の深い愛によって育たれてた子は、親を通し、特に父親を通し、父なる神の愛を知るのです。子の信仰生活に多大なる良い影響を与えるのです。父なる神に対する健全な信仰を子が持つなら、「権威」というものを正しく理解します。自然と従いの心を持つようになります。あなたの親子関係はいかがですか。
親を責める前に、子を責める前に、まず自分はどうでしょうか。

2012年4月20日金曜日

幸せな夫婦と教会

エペソ5章21節~33節

 21 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。
 22 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。
 23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。
 24 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。
 25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
 26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
 27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
 28 そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。
 29 だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。
 30 私たちはキリストのからだの部分だからです。
 31 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」
 32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。
 33 それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。

夫婦関係はこの世で最も基本的で、小さな人間関係の場ですが、しかし、人生において最も親密で大切な関係です。夫婦関係がこじれると、親子関係は勿論、様々な社会生活にも悪影響がでます。結婚生活は同棲などでは決してありません。単に愛し合う男女が一緒に同じ家に住むことなどと安易に考えてはいけません。そもそも結婚は、人間の愛から始まったものではありません。人間を創造された神様から出発しているのです。創世記2章で、最初の人類アダムを創造された後に、神様は「「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」と考え、女の人を作られました。結婚は人の考えではなく、何よりも神様が人間への祝福のために決められたことです。単に好きだから、いっしょになりたいから、結婚するのではないのです。ですから、当然夫婦の関係も、神様を中心として捉えなければなりません。神であるイエス様が愛されたように、夫はたとえ自分が犠牲になることがあっても、一生の間、専ら妻を愛するのです。いのちを捨ててまでも妻を愛し守り支えるのです。それに対し、妻もまたかしらである夫に心からの従順と尊敬を持って仕え、従うのです。この神が定められた創造の秩序に従い、夫婦生活を成す時に、ふたりは真の意味で「一心同体」となるのです。麗しく、美しい一致が生みだされるのです。すべてはキリストが中心です。

2012年3月27日火曜日

みこころは何であるか

エペソ人への手紙5章15節~21節
 15 そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、
 16 機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。
 17 ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。
 18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。
 19 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。
 20 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。
 21 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。

「自分の罪過と罪の中に死んでいた」(エペソ2:1)私たちが救われ、きよめられ、完成へと至るのはもちろん主である神様ご自身です。自分の力ではどうにもならない原罪を持つ私たちが、根本的に、まったく新しくされるのは、神の業、聖霊の業です。しかし、だからといって自らの救いの達成のために何もせず、ただ世に流されていても仕方がないことだとは聖書は教えていません。無力であることを認めながらも、古き自分に失望しながらも、なおも主の恵みに期待し、霊的成長を遂げることを決して怠ってはいけません。ここでは、泥酔による放蕩についての戒めが言われていますが、放蕩は、別な言い方では「破滅的」、ある英語の聖書では「浪費」と訳されている言葉です。日本はお酒に寛容な?国ですが、実に多くの人が毎年泥酔によって、多くのものを失っています。さらにはいのちを落としている者もいるのです。私たちを真に解放し、自由にし、失われない喜びをもたらすものは、アルコールなどではなく、御霊に満たされることです。「自分の心に正直に、素直に生きる」などと言うことがスマートな言葉として良く言われますが、自分が罪人であることを認めるならば、それは必ずしも、自由な生き方ではないことが分かります。なぜなら、私たちは「悪い時代」に生きており、何が正しくて、何が間違っているか、何が正義かが非常に曖昧な世から多分に影響を受けているからです。自分で良かれと思っていることが、聖書から見るならば必ずしも正しくないということが多いにあるのです。真の聖徒は、自分の心、思いを最優先させるのではなく、主のみこころは何であるかをまず問うのです。自分の思考や願望を持ってきて、「これが御心に違いない」などと錯覚してはいけません。日々御言葉を黙想し、賢い歩みを選び取りましょう。

2012年3月25日日曜日

2012イースター礼拝のご案内


どなたでもご自由にお越しください。心から歓迎します。

基督兄弟団春季全国大会

日程 2012年3月29日(木)~4月1日(日)
会場 ふれあいの里石岡 ひまわりの館
茨城県石岡市大砂10527-6
℡ 0299-35-1126

宿泊は羽鳥の聖書学院となります
聖会の祝福のためお祈りください。

2012年3月24日土曜日

光の子として

エペソ人への手紙5章3~14節
3 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。
4 また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。
5 あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。――こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。
6 むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。
7 ですから、彼らの仲間になってはいけません。
8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。
9 ――光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。――
10 そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。
11 実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。
12 なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。
13 けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。
14 明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」

キリストの血潮によって罪赦され、清められた者は、聖徒と呼ばれます。ですから、もはや以前の古い肉の生き方に留まることは聖徒としてふさわしくありません。主に従い、忠実な働き人として用いられたイザヤやモーセ、パウロなども、主の召しを受けたとき、まず聖別され、自らに死にました。私たちも十字架にイエス様とともにつけられ、不品行や我欲に支配された生き方に死ぬ必要があります。 使徒パウロが「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)と言うように、私たちが主の弟子として主と共に歩み、共に生きるためには十字架によって我欲に死に、また復活のいのちによって生きることが大切です。なぜならイエス様の弟子としてイエス様に倣う生き方とは、例え自らを犠牲にすることがあっても、隣人に仕え、愛する生き方ですが、聖書が否定する不品行とは、相手を利用し、犠牲にしてまでも、自分の欲を満たす行為だからです。「こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができない」のです。聖徒があるべき姿は、この世に対し、善意と正義と真実の光を照らすことです。

2012年3月10日土曜日

3・11リバイバル礼拝

さいたま市北区のキリスト教会 基督兄弟団大宮教会


「3・11リバイバル礼拝」
3月11日の主日は、東日本大震災からちょうど丸一年となる日です。基督兄弟団大宮教会では、この日を覚え、主なる神様に被災地と日本の復興を悔い改めと共に祈る記念礼拝を持ちます。共に、聖霊に導かれつつ、リバイバルを求め祈りましょう。

2012年3月2日金曜日

赦されているから

エペソ4章32節から5章2節
 4:32 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったよう  に、互いに赦し合いなさい。
 5:1 ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。
 5:2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。

人は愛されることで、人を愛することができます。愛されることによって愛が何であるかを知るのです。では、赦しもまた同様に考えることはできないでしょうか。確かに、私たちは対人関係においてすべての人と良好な関係を持つことは困難です。中には気に入らない人もいるでしょうし、時に人から耐え難いほどの苦痛を受けたり、深い傷を負わされることがあります。傷が深刻であればあるほど、或いは、傷を与えた相手が否を認め謝罪してこない場合などは、ますます赦すことは困難になるでしょう。しかし、聖書は「ただ赦しなさい」とは語りません。まず、あなたがた自身がキリストにおいて神に赦されているのだと言うのです。神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさいと言うのです。キリストが罪の結果、本来裁かれるべき私たちの罪の身代わりにその身に裁きを受けらました。それは私たちに和解をもたらす為、赦しを宣言するためです。旧約の時代、罪の赦しは、羊や牛に罪を移し、いけにえとしてほふり、その血を流すことによって実現されましたが、まさにイエス様ご自身が、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物となって殺され、血を流して下さったのです。私たちは、この偽りのない、本当の愛と赦しを受けているからこそ、真に愛し合い、そして赦しあうことができるのです。

2012年2月23日木曜日

JESUS IS THE ANSWER.

エペソ人への手紙4章17~32節
 17 そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。
 18 彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。
 19 道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています。
 20 しかし、あなたがたはキリストのことを、このようには学びませんでした。
 21 ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。
 22 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、
 23 またあなたがたが心の霊において新しくされ、
 24 真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。
 25 ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。
 26 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。
 27 悪魔に機会を与えないようにしなさい。
 28 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。
 29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。
 30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
 31 無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。
 32 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。

私たちの人生をむなしくさせるもの、それは、「彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れ」たことにすべて起因します。最初の人類であるアダムとエバが生活していたエデンの園の中央には、「善悪の知識の木」と「いのちの木」があったと創世記には記されています。しかし、神の命令を破り、善悪の知識の実を取って食べてしまったが故に、エデンの園から追放され、いのちの木をも失うことになってしまいました。そして、結果として、我々人類には「好色、不潔、盗み、悪口、無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしり」などどいった罪の実が結ばれることになってしまいました。このような罪の実を放置し、聖霊を悲しませ、自己中心に生きることは、むなしさしか生みません。どんなに自分を喜ばせても、快楽を味わっても、社会的な成功を収めても、罪の問題が解決されないなら、私たちはむなしい存在なのです。しかし、私たちが「ほんとうにキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならば」私たちの古き性質は離れ去り、新しくされるのです。「まさしく真理はイエスにあるから」です。他には救いはありません。私たちをご自身の命と引き換えに赦して下さる主イエス様を求めましょう。私たちの人生の答えは、イエス・キリストにあります。イエス様と共にあるなら、もう私たちの内にむなしさは残りません。

2012年2月15日水曜日

誠実さが一致を保ちます

エペソ4章14~16節
 14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
 15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
 16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

人間関係を築く上において最も大切なことは、信頼関係ではないでしょうか。いかに能力があっても、魅力的でも、その人に対する信頼が揺らぐならば、それ以上深く関係を築くことは困難です。建物や機械が壊れても、修理すればまた元のように使えますが、人間関係に不信が入り込むなら、修復はかなり難しくなります。パウロの時代も現代も、教会を混乱させ、惑わそうとするサタンの力が働いています。悪巧みや、人を欺く悪賢い策略などの教えの風が吹いています。ですからその様な中で、私たちに求められている霊性は、誠実さです。主と人の前において、私たちは誠実である必要があります。自分が認められたいが故に自分を良く見せる必要はありません。聖書が語る誠実さとは何でしょう。それは、愛と真理です。相手に見返りを求める愛ではなく、イエス様が示された自己犠牲の精神、即ちアガペーの愛と、私たちの信仰の唯一の規範(カノン)であり、誤りのないもの=真理の御言葉を土台として生きるということです。そのようにして私たちは『キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。』

2012年2月10日金曜日

色鮮やかな教会

エペソ4章7~13節
 7 しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。
 8 そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」
 9 ――この「上られた。」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。
 10 この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。――
 11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
 12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
 13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

教会が「一致」することを聖書は語りますが、決して「一色」になることを語ってはいません。なぜなら、キリストご自身が、賜物のはかりに従って、一人一人に個性的な、豊かな賜物を与えておられるからです。『救いの恵みは全員に同じだが、個々の信徒への天賦の才は十人十色』(レンスキ)との言葉の通りです。では、各自に豊かな賜物が与えられた、委ねられた理由はなんでしょう。それは、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するため」です。キリストを頭とした教会が一致した信仰により、成熟し成長することで、教会自体がキリストご自身を表わすため、教会という存在を通してキリストを証しするためです。人々が教会を見て「ここにイエス様がいらっしゃる」「イエス様は救い主で今も生きて働いておられる」と悟ることができるように、主は教会に豊かな賜物を与えて下さったというのです。ですから、賜物は自分のためではなく、主の栄光のために捧げられるものです。もしそうしなければ、却って、一致が破壊されてしまい、分裂が生じてしまうのです。主を喜び、主のために仕えることこそが、自分自身の喜びとなるように願います。

2012年2月2日木曜日

平和の絆でひとつ

エペソ人への手紙4章1~6節
 1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。
 2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、
 3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
 4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
 5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
 6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。

「ひとつになろう」「一致しよう」「一丸となろう」などというスローガンがあります。会社でも、地域でも、スポーツなどでもよく使われるスローガンです。では、どうしたら私たちは一致することができるでしょうか。共通の理念や目標、方向性を示すことでしょうか。また、危機的な状況が人々の心を一致させることもあるでしょう。実際に、大震災を経験した昨年は、随分と「一致」だとか「きずな」とか言うことが叫ばれました。「今こそ日本が一つとなって、この国難を乗り切ろう」と。しかし、現実はどうでしょうか。言葉では簡単ですが、私たちが一致するのは決して易しいことではないように思われます。自分に利益をもたらすものならば一致できても、自分が納得できなかったり、不利なことのように思われるならば、自分が例え損をしても大儀のためならば一致しようとは、なかなか思えないものです。特にポストモダンの時代に生きる私たちにはそうかもしれません。
では聖書は「一致」についてどう語っているでしょうか。聖書は「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」と語ります。平和の絆で結ばれることで一致できるというのです。では平和の絆とは、どのような絆でしょうか。第一に召しを自覚することです。罪人である自分が、「平和の君」なる主イエス様の一方的な愛と憐みによって、罪赦され、神の子とされ、永遠のいのちが与えられ、そして神の栄光のために弟子として選ばれたのだという自覚です。この自覚に立つなら、パウロが語るように誰も自分を誇ることはないはずです。召して下さった主を誇り、主の御言葉を伝え、主のために生きるというヴィジョンが生まれます。第二は、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合う」ことです。最も謙遜で、柔和で、寛容で、愛に富んだイエス様の霊性に倣うときに一致が生まれるというのです。どんなに自分に自信があって、正しくて、また指導的な立場にいたとしても、いつも自己中心的に、自分の考えを絶対化するならば決して一致が生み出されることはありません。これは特にリーダーに対して求められる霊性ではないでしょうか。そして、第三にこれは「聖霊」によって成し遂げられるということです。聖霊の助けなしには一致は一時的に成し遂げれれてもすぐに途切れてしまったり、混乱と争いの王である悪魔サタンの妨害に打ち勝つことはできません。聖霊によって導かれることを教会が求めないならば、一部の指導者の権威や支配を絶対化させ、聖徒の思考を統制し、偽りの一致が生み出されてしまうかも知れません。即ち「カルト化」の危険があるということです。教会は聖霊によって牧会されなければなりません。
以上これらのことを心に留め、みことばに立ち、従うならば、「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神」の力によって教会は整えられていきます。あの初代教会のような、愛と慈善と謙遜な奉仕にあふれた、美しい共同体になるのです。

2012年1月24日火曜日

ひざまずく執り成し

エペソ人への手紙3章14節~21
14 こういうわけで、私はひざをかがめて、
15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。

執り成しの祈りとは、罪人である人間のために神に取り持つことを言いますが(イザヤ53:12など)、祈られる対象の人が何より神を見上げ、神を深く体験し、神を心から礼拝するように取り持つことを願う祈りとも言えるでしょう。ですから、もちろん祈られる人自身の祝福を願う祈りであるには変わりないのですが、単に個人的な願望が叶うことや、目的が達成できることが最終目的なのではなく、あくまでも豊かに施してくださるお方である神様ご自身が褒め称えられること、神様に栄光が帰せられることを願う祈りなのです。ゆえに祈りが聞かれたとしても、そのことが個人の栄誉になってはいけませんし、祈りに応えて下さった神様に栄光を現わさないとするならば、それは執り成しの祈りの本質から反れた、実に愚かな姿だと言えるでしょう。
パウロは、エペソの教会の人々のためにひざをかがめて、ひれ伏し、熱心に執り成します。その内容は、彼らが「内なる人が強められ、キリストの愛を心の底から味わい、その愛に満たされること」でした。そうです。罪人である私たちが真に悟らなければならないことはこういうことなのです。私たちは執り成す時に、社会的な成功や、事業の祝福、病の癒しだったり、健康を願うことなどを祈ります。もちろんこれらを祈ることは悪いことではありませんし、そう祈るべきです。しかし、それらが執り成しの最終的な目的であってはなりません。あくまでも手段なのです。執り成しの真の目的は、祈りが答えられることを通して、神が今も生きて働いていてくださることを知り、さらに信仰が強められ、またこんな罪人である自分をも省みてくださり、憐れんで下さって、祈りを聞いてくださったのだと畏れひれ伏すことなのです。ご自身の命を捨ててまでも、私のために心から愛していて下さる主の前にへりくだり、全ての栄光を帰すことなのです。ですから、執り成しの祈りが生活の中にある人は、主の前にひざまずく人になるのです。

2012年1月21日土曜日

すべてが新しく

ローマ人への手紙11章33節~12章2節
11:33 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。
34 なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。
35 また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。
36 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

あなたは「新しい」、「新鮮」、「ニュー」などの言葉に敏感な方でしょうか。聖書には、主と共にある者は、常に「新しさ」があるとあります。新しい歌(賛美)が溢れ、魂が新しくされ、朝毎に新しい恵みがあるというのです。外面的には人間は衰えていきます。年配の方で確かに若々しい人がいますが、それは若々しいだけであり、実際に若い訳ではありません。モノやシステムも登場した時は最新のものであっても、しかしその瞬間から時間の流れに従って古くなるのです。しかし、聖書が言う「新しさ」は、時代や環境、文化、そして時間に左右されない新しさであり、新しく創造的に創られるものです。それは、神様ご自身が、アルファであり、オメガである、初めであり、終わりである、つまり永遠のお方だからです。「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るから」常に新しい御業を期待することができるのです。ですから、私たち信仰者は、自分自身の狭い考えや常識、伝統や経験、凝り固まった固定観念で豊かな信仰の世界を妨げてはいけません。2000年前、使徒の時代に働かれた聖霊の神は、今も同じ御業を成すことができるのです。三千数百年以上前に出エジプトを導かれた神は、今も変わらず人々を導くことがおできになるのです。神にとっては千年も一日のようなのだと聖書は言うのです。ですから大切なのは、自分に神様(みことば)を合わせるのではなく、神様ご自身の権能に、御言葉の能力に、自分を合わせるのです。主の御言葉で、聖霊の力で、「わたしを聖め、主のものとして、主のみこころのままに私を新しくつくり変えてください」と祈るのです。新しい年に、主の新しい恵みを期待しましょう。

2012年1月13日金曜日

聖めるのはイエスの血潮


第一テサロニケ5章23~24節
23平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
24 あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。

1999年には世界の終わりが来るとずいぶん騒がれたものですが、2012年にも世の終わりが来ると唱えている者がいるそうです。マヤ文明において用いられた歴がそれを指し示しているのだそうです。しかし、このマヤ歴と終末論の背景にはニューエイジ(日本ではスピリチュアルという言葉の方が馴染みがあるでしょう)の影響があるのです。ニューエイジは1960年代のアメリカのカウンターカルチャー(狭義にはヒッピームーブメントやロックなど)をその直接の起源とし、既存の文明や科学、政治体制などに批判を加え、それらから解放された、自由な生き方を模索しようとする精神運動だと言えます。そして、その特徴の一つに、「自己聖化」というのがあるそうです。「すべてのものは聖なるものである。」という前提があるので、神はもはや必要なく、人間の秘めたる力や可能性の追求によって、解放された自己の実現を目指すものです。
しかし、これは明らかに聖書の教えに反することです。確かに「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。」(Ⅰテサロニケ4:3)が、それを成し遂げるのは、人間の努力ではなく「平和の神ご自身」だと聖書は語ります。ニューエイジは、一見すると宗教的で、自由な発想に思えますが、しかし、聖書が禁じている不品行を肯定し、人間の罪の性質に対しては目をつぶります。その行きつく先は自由や解放ではなく、却って人間を罪の奴隷状態に貶めてしまうのです。人類を罪から救い、聖め、真の自由を与えるのは、神の御子なるイエス・キリストの十字架の血潮のみです。

2012年1月6日金曜日

新年聖会のご案内

さいたま市北区のキリスト教会 基督兄弟団大宮教会


東京教区新年聖会のご案内です


日時 2012年1月9日(月)
    聖会Ⅰ 10:30-12:00
    聖会Ⅱ 13:30-15:00


会場 基督兄弟団成増教会
      東京都練馬区旭町3-32-18


講師 Ⅰ 小野寺従道師(横浜教会)
   Ⅱ 藤波喜久子師(小田原教会)





祈りつつ、是非お出かけ下さい。

2012年の標語

新年明けましておめでとうございます。
今年も主の救いの喜びと栄光が輝く一年となりますようにお祈りします。

今年の標語が決まりました。
教会標語は
「三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。」(イザヤ書37:30)

教団標語は
「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。」(Ⅰテサロニケ5:23)

です。

テーマは「聖め、そして自立」です。