2012年2月2日木曜日

平和の絆でひとつ

エペソ人への手紙4章1~6節
 1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。
 2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、
 3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
 4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
 5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
 6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。

「ひとつになろう」「一致しよう」「一丸となろう」などというスローガンがあります。会社でも、地域でも、スポーツなどでもよく使われるスローガンです。では、どうしたら私たちは一致することができるでしょうか。共通の理念や目標、方向性を示すことでしょうか。また、危機的な状況が人々の心を一致させることもあるでしょう。実際に、大震災を経験した昨年は、随分と「一致」だとか「きずな」とか言うことが叫ばれました。「今こそ日本が一つとなって、この国難を乗り切ろう」と。しかし、現実はどうでしょうか。言葉では簡単ですが、私たちが一致するのは決して易しいことではないように思われます。自分に利益をもたらすものならば一致できても、自分が納得できなかったり、不利なことのように思われるならば、自分が例え損をしても大儀のためならば一致しようとは、なかなか思えないものです。特にポストモダンの時代に生きる私たちにはそうかもしれません。
では聖書は「一致」についてどう語っているでしょうか。聖書は「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」と語ります。平和の絆で結ばれることで一致できるというのです。では平和の絆とは、どのような絆でしょうか。第一に召しを自覚することです。罪人である自分が、「平和の君」なる主イエス様の一方的な愛と憐みによって、罪赦され、神の子とされ、永遠のいのちが与えられ、そして神の栄光のために弟子として選ばれたのだという自覚です。この自覚に立つなら、パウロが語るように誰も自分を誇ることはないはずです。召して下さった主を誇り、主の御言葉を伝え、主のために生きるというヴィジョンが生まれます。第二は、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合う」ことです。最も謙遜で、柔和で、寛容で、愛に富んだイエス様の霊性に倣うときに一致が生まれるというのです。どんなに自分に自信があって、正しくて、また指導的な立場にいたとしても、いつも自己中心的に、自分の考えを絶対化するならば決して一致が生み出されることはありません。これは特にリーダーに対して求められる霊性ではないでしょうか。そして、第三にこれは「聖霊」によって成し遂げられるということです。聖霊の助けなしには一致は一時的に成し遂げれれてもすぐに途切れてしまったり、混乱と争いの王である悪魔サタンの妨害に打ち勝つことはできません。聖霊によって導かれることを教会が求めないならば、一部の指導者の権威や支配を絶対化させ、聖徒の思考を統制し、偽りの一致が生み出されてしまうかも知れません。即ち「カルト化」の危険があるということです。教会は聖霊によって牧会されなければなりません。
以上これらのことを心に留め、みことばに立ち、従うならば、「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神」の力によって教会は整えられていきます。あの初代教会のような、愛と慈善と謙遜な奉仕にあふれた、美しい共同体になるのです。

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