2012年10月23日火曜日

赦しは十字架から

マタイ18章21~35節

 21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
 22 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。
 23 このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
 24 清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。
 25 しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。
 26 それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。
 27 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。
 28 ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。
 29 彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。
 30 しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。
 31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。
 32 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。
 33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』
 34 こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。
 35 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」

 「仏の顔も3度」という言葉がありますが、当時のイスラエルにおいても3回までは隣人に罪の赦しを請うことが出来るというラビ(律法の教師)の教えがあったそうです。「7度まで赦すべきでしょうか」とイエス様に質問したペテロは当時のそれよりも遥かに寛大な数を示しました。実際、同じ相手から不利益を3回どころか7回受けても赦すことができるとするならその人は間違いなく寛大な人でしょう。しかし、イエス様は「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまで(赦しなさい)」と言われました。ここでイエス様は借金の返済に関するひとつの喩えを語られます。23節から35節をご覧ください。1万タラントは今の日本のお金に換算するなら数百億円という莫大な額です。しもべが自分も妻子も持ち物全部も売って、さらにお金を工面したとしても絶対に返すことはできない額でしょう。 それでもこのしもべは、「主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』」(26節)と言いました。主人もいかに彼が謝罪して、誠実な態度で返済の約束をしたところでも、返済不可能なことは十分に分かってます。しかもその借金は自分が負わなければならないことも分かっています。それにも関わらず、主人はしもべを赦すのです。なぜでしょうか。彼を見て「かわいそうに思った」(27節)からです。憐れみをかけたのです。聖書で「憐み」と言う言葉は、「内臓」という意味があります。まさに内臓が引き裂かれるように心が痛むこと、日本語なら「断腸の思い」とでも言えるでしょうか。これは、まさにイエス様の心を表わしています。私たちも「罪」という自分の力では絶対に返すことが出来ない借金を背負っています。どんなに徳を積んで、善行をしても、また罪を犯してします。罪の奴隷とも言える存在、それが私たち人間です。イエス様はその罪に解決を与えるために、自らが肩代わりをしてくださいました。即ち、罪を代わりに背負ってくださり、罪の赦しの生贄として十字架で死んでくださったのです。イエス様は体も心も、そして父なる神との関係までもすべてが引き裂かれたのです。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マルコ15章34節)とはまさにそういうことです。
 ですから私たちはこのイエス様によって赦されている存在なのです。そんなイエス様が「七度を七十倍するまで」、要するに、とことん赦しなさい、裁いてはいけない、復讐してはいけないと言われるのです。しかし、そのように赦されているものであるのに、自分が他人から受けた不利益や を赦すことができないとするならばどうなるのでしょう。「『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」(32~35節)と言われます。
 私たちが十字架によって赦されているという事実に立つときに、また他人の罪をも赦すことが出来るようにと主は願っておられます。赦しの根本は十字架にあります。

2012年10月15日月曜日

幼子のように

ルカの福音書18章15節~17節

 15 イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった。
 16 しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
 17 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」

 イエス様のもとに子どもたちが親に連れられてきました。新改訳聖書では「幼子」、新共同訳聖書では「乳飲み子」と記されています。どれくらいの数の子どもたちかは分かりませんが、イエス様の人気を考えると、子どもたちの声は相当に賑やかなものではなかったのかと推測できます。この様子を見た弟子たちは、幼子たちがイエス様の元に来たのを歓迎しませんでした。イエス様の話の邪魔になると考えたのか、うっとうしくて働きが妨げられるとでも思ったのでしょうか。「それを見てしかった」とあります。しかし、イエス様はそのような弟子たちの態度を喜ばれませんでした。並行記事のマルコの福音書10章14節には、「イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。『子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。』」と記されています。
 「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」(16-17) 「子どもたち」であっても勿論彼らは罪人です。嘘もつくし、わがままも言うし、自分勝手な性質はやはりアダムの子孫であることを示しています。しかし、ここで言う神の国に相応しい「子どもたちのような者」とは、素直さ、純粋さ、正直さと言った心を持つ者と言う事です。この記事の前後には、自らを義人だと自認するパリサイ人とやはり自分の正しさを誇っている金持ちの役人の記事が描かれています。神の前においてもなお、自分には過ちはない、罪人ではない、むしろ、他人の罪を指摘し、批判する大人たちには神の国は相応しくないと言うのです。子供のように素直な心で、主の前に自らの罪を告白し、十字架による贖いの業を信じ、従う者でなければ、決してそこに入ることはできないのです。

2012年10月11日木曜日

オンギジャンイゴスペルコンサート2012

さいたま市北区のキリスト教会



今年もやってきます、オンギジャンイコンサート。
美しいハーモニーと聖霊による感動がきっとあなたの心を満たすことでしょう。
ご家族、お友だちをお誘いの上どうぞお越しください。
入場無料です。駐車スペースもございますので、お車でお越しになっても大丈夫です。
お待ちしております!!!

自分を高くする者、自分を低くする者


ルカの福音書18章9節から14節
 9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
 10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
 11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
 12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
 13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
 14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

 どんなに正しい人でも、評判の良い人であっても、罪人である私たちは、自分で自分を義とすることはできません。「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10) このパリサイ人は確かに本人が言うように、他人をゆすったり、不正をしたり、姦淫をしたりする人間ではないのでしょう。しかも、宗教生活においてもかなり自分に厳しい人であると言えそうです。しかし、聖書には「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ3:20)とあります。ですから、そのような意味で、彼の祈りの根本的な誤りは、「罪の意識」即ち、悔い改めが全くないのです。人と比べて、いかに自分が正しいのか、神の救いに相応しい人間なのかということを訴えているに過ぎません。これは、もはや祈りではありません。単なるうぬぼれです。
 一方、取税人はどうでしょうか。パリサイ人の言葉を借りれば、彼は「人をゆすり、不正を行い、姦淫し、しかも、全く宗教的生活をしていない人間」でしょう。しかし、彼には、「罪の意識」があったのです。そのことを本当に心から悔いて、嘆いているのです。神様の前にあまりにも恥ずかしく、「・・・遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて」彼はこう祈りました。「『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」。
 結論はこうです。「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」主は憐れみ深いお方です。あなたが誰であれ、遜り、自らを低くする者には、どんな人であっても救いの冠を与えて下さいます。「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(Ⅰペテロ5:5~6)