2011年12月13日火曜日

クリスマス礼拝のご案内

さいたま市北区のキリスト教会
 基督兄弟団大宮教会プレゼンツ


どなたでもご自由にお越しください
教会で本当のクリスマスを過ごしませんか?

幸せですか

ルカの福音書46節から55節

46「わがたましいは主をあがめ、
47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。
49 力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、
50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、
52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、
53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。
54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。
55 私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」

ついこの間まで、ブータンの国王夫妻が日本を訪問され、各地で爽やかな風をもたらしてくれました。ブータンは世界で一番幸福度が高い国だそうです。しかし、幸せというものは演じて出来るものではありません。決して思い込みでもありません。
イエスの母マリヤは自らを「しあわせ者」であると歌っています。しかもこれから後、どの時代の人々もそう思うだろうと彼女は言うのです。ここで言う幸せとは、単に自分の欲求が満たされていることや、満足しているさまを言っているのではありません。この言葉は、ギリシヤ語でマカリオスと言い、時間や状況によって変動するこの世のはかない幸せではなく、また悲しみや不運によっても消えることのない神の祝福を意味しています。では、その神から来る消えることのない幸せはどのようにして得ることができるのでしょうか。それは、主の「はしため」として生きると言うことです。つまり聖さと謙遜さです。自らを低くするということです。御言葉が語るように、心の思いの高ぶっている者は追い散らされますが、低い者は高く引き上げるのです。

2011年11月28日月曜日

アドヴェントに入りました

今週から教会ではアドヴェント(待降節)に入りました。ところで、アドヴェントとは何でしょう。新聖書辞典によれば以下のようになります。

■たいこうせつ 待降節 聖誕節に備える教会暦の期間でアドベントとも呼ばれ,キリストの初臨と再臨の両方にこの「表れ,来臨」を意味する語(〈ラ〉Adventus)が使われている。教会暦の始まりを意味し、また再臨への備えをも含意するこの期間は、歴史的には復活節に備えるレントと共に定着した。東方教会で初めに覚えられるようになり、西方教会ではグレゴリウス1世(590―604年在位)以前の記録はないようである。最初はバプテスマに備える期間としてレントと共に覚えられたと思われ、その長さも6週間とか4週間とかいろいろであった。しかし現在は西方教会で規定された暦で守られるようになり、聖アンデレ日(11月30日)に最も近い日曜日がアドベント主日、つまり待降節の始まりとされている。聖誕節そのものの月日に論議もあるが、主の来臨を年ごとに深く覚えるために、早くから備えるこの期間は有益である。

因みに今年は11月27から12月24日の期間がアドヴェントになります。ですから、クリスマスはイエス・キリストのご降誕を祝い礼拝するとともに、再臨の主をいよいよ待ち望みつつ、祈り備えることと、この良き訪れをすべての人々に伝えるときなのです。そして、やがて主イエス様がお越しくださった後には、聖徒は天の御国でイエス様とともにお祝いをするのです。

イエスの系譜に連なる者

マタイの福音書1章1~17節
1 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。
2 アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、
3 ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、
4 アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、
5 サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが 生まれ、オベデにエッサイが生まれ、
6 エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、
7 ソロモンにレハベアムが生まれ、レハベアムにアビヤが生まれ、アビヤにアサが生まれ、
8 アサにヨサパテが生まれ、ヨサパテにヨラムが生まれ、ヨラムにウジヤが生まれ、
9 ウジヤにヨタムが生まれ、ヨタムにアハズが生まれ、アハズにヒゼキヤが生まれ、
10 ヒゼキヤにマナセが生まれ、マナセにアモンが生まれ、アモンにヨシヤが生まれ、
11 ヨシヤに、バビロン移住のころエコニヤとその兄弟たちが生まれた。
12 バビロン移住の後、エコニヤにサラテルが生まれ、サラテルにゾロバベルが生まれ、
13 ゾロバベルにアビウデが生まれ、アビウデにエリヤキムが生まれ、エリヤキムにアゾルが生まれ、
14 アゾルにサドクが生まれ、サドクにアキムが生まれ、アキムにエリウデが生まれ、
15 エリウデにエレアザルが生まれ、エレアザルにマタンが生まれ、マタンにヤコブが生まれ、
16 ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。
17 それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。
18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。


イエス・キリストの系図は、単なる家系図ではありません。ここに登場する系図という言葉は、「創造の経緯、記録」という意味があり、本書が創世記に対応しているとともに、イエス・キリストによって天地の創造に匹敵する新しい創造が起こることを示唆しています。ここに記されている人物たちは、神に対し忠実に信仰者として優れた人生を送った人もいますし、また神の御心に背き、悲惨な最期を遂げた人物も含まれています。そのような意味では、神の独り子であり、全人類の救い主の系図としてはふさわしくないと思われるかもしれません。しかし、ここでの大切なのは、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じ、受け入れ、即ち「新しく創造」されるならば、すべての人が、霊的にアブラハムの子孫とされ、神の子とされるということなのです。そして、私たちの名が天国の系図に書き記されるのです。

2011年11月9日水曜日

召天者記念礼拝

さいたま市北区のキリスト教会


来週11月13日の主日は召天者記念礼拝です。
地上での信仰生活を全うし、先に天の御国へ凱旋された方々を偲び、私たちもまた天における復活と栄化の希望を覚えながら、神に感謝を捧げる礼拝です。司式者は、基督兄弟団秋田べテル教会の中田元牧師です。

私は神様のもの

詩編119編89~96節
89 主よ。あなたのことばは、とこしえから、天において定まっています。
90 あなたの真実は代々に至ります。あなたが地を据えたので、地は堅く立っています。
91 それらはきょうも、あなたの定めにしたがって堅く立っています。すべては、あなたのしもべだからです。
92 もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。
93 私はあなたの戒めを決して忘れません。それによって、あなたは私を生かしてくださったからです。
94 私はあなたのもの。どうか私をお救いください。私は、あなたの戒めを、求めています。
95 悪者どもは、私を滅ぼそうと、私を待ち伏せています。しかし私はあなたのさとしを聞き取ります。
96 私は、すべての全きものにも、終わりのあることを見ました。しかし、あなたの仰せは、すばらしく広いのです。

誰でも生きていくうえで、悩みはあるものです。自分の力で解決できる問題なら努力すれば良いでしょうが、時にはどうにもならないことが起こることもあります。その時に、そのどうにもやりきれない思いをどう処理すれば良いでしょうか。ある人は「あいつのせいだ」「世間のせいだ」「天のせいだ」といったように誰かのせいにして、怒りや憎しみをぶつけることで、自らを保とうとするかもしれません。この詩編の記者もまた理不尽な悪者どもに苦しめられている状況の中にいます。しかし、詩人は「自分の悩みの中」から神の言葉によって救い出されたのだと告白しています。それは、誰が何と言おうと、何をしようと、いかに自分の存在を脅かそうとしても、自分は神のものであり、神の子どもであり、神の保護の中にいるのだという強い信仰の告白です。悩みに勝る喜びが神の言葉にはあるというのです。その通り、神の言葉はいつも真実です。時代や環境に左右されず、堅固で、私たちを決して失望させません。その神の言葉が私の喜びであるならば、深い悩みの中でも勝利することが出来るのです。

2011年11月4日金曜日

神を知るには

エペソ人への手紙3章1~6節
1 こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。
2 あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の務めについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。
3 先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。
4 それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。
5 この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。
6 その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。

信仰生活の中で、私たちは様々な神様の恵みを体験しますが、その御業がどのような形でなされるか、いつ起こるかなどは、人が悟ることはできません。当然ながら人が操作することもできません。それはまさに「神の業」であり、人知を遥かに超えた神の力によって成し遂げられるからです。「罪からの救い」ひとつを考えてみてもそうでしょう。十字架の贖罪は、科学万能主義の現代に生きる我々が理性だけで悟ることができるでしょうか。いいえ、できません。これはすべて神の奥義であり、人間の努力や修行によって、到達するのではなく、神からの啓示によって示され、聖霊によって悟るという神の奥義なのです。神はこの世の知者や賢者、権力者、立派な宗教家などといった特定の選ばれた者を通して、ご自身を表わすのではありません。どんな人でも、たとえ人から愚かだと言われるような者であったとしても、謙遜に主を求め、自らの罪を認め、告白し、へりくだって祈るものであるなら、主はご自身を聖書を通して、啓示され、臨んでくださいます。そして、天の御国を受け継ぐ者にしてくださるのです。

2011年10月22日土曜日

聖霊によって建て上げられていく教会

エペソ人への手紙2章20~22節
20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。
21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、
22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

教会は、主イエスによって建てられた主のからだです。また、「聖なる宮」です。「宮」という言葉は、ギリシヤ語ではNAOSという言葉が使われており、それは日本語では「至聖所」という意味です。至聖所とは、旧約時代、人が神に会見する極めて聖い、特別な場所でありました。罪人である人間が、聖い神と交わりを持つことは極めて限定されたことでした。しかし、神の御子である、主イエスの十字架の死と復活により、信じる者は誰でも義とされ、聖くされ、神様と交わることが許されています。ですから、教会は神である主イエスが住まわれる所であるとともに、主イエスに出会うことができる場所です。そして、イエス・キリストに人格的に出会い、罪を告白し、赦された者たちが、感謝と献身を表わす場所です。しかし、その教会を育て、成長させるのは、我々の力ではありません。三位一体の神なる聖霊の働きです。教会は、聖霊によって導かれ、聖霊によって宣教し、一致し、愛の業を成していくのです。それ再びイエスが来られるその日、すなわち「主の日」まで続くのです。主の日まで、みからだなる教会は成長し、主のお越しを待ち望むのです。

2011年9月30日金曜日

韓流ゴスペル オンギジャンイコンサート2011

さいたま市北区にあるキリスト教会
大宮教会プレゼンツ

今年もやってきます!韓流ゴスペル、オンギジャンイコンサート!

今回は、日曜日の礼拝とのジョイントです


ゴスペルファンも、韓流ファンも、教会に興味がある方も、どなたでもお越しください


入場無料です

お待ちしてます!

和解の十字架

エペソ人への手紙2章11節から16節

11ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、
12 そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。
13 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。
14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、
16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。

人間の中には、差別意識や優越心、或いは敵対心といった感情があります。それを露骨に表に出す場合もありますし、密かに抱いている場合もまた多いでしょう。かつて、イスラエルの神殿には、隔ての壁が存在していました。神殿と異邦人の庭との間に石の壁が建っており、そこにはギリシャ語とラテン語でこう書かれてあったそうです。「他民族の誰も、宮の壁の中にも、また囲いの地にも入ってはいけない。そして、誰でもこの規則を破るものは結果的に、自らの身に死を招くことになる」
しかし、聖書にはこう記されています。「主イエス・キリストの十字架によって、敵意は廃棄された。葬り去られた。」
まず、私たちは神との和解が必要です。私たちを創造し、最も愛し、慈しんで下さっているにも関わらず、私たちが一方的に関係を断ち切ってしまった神様との和解です。そしてそのことが成し遂げられたなら、次に人間関係における和解が実現します。敵を愛することができるように神様が私たちを作りかえて、きよめてくださるのです。もし心に葛藤を覚えている人がいるなら、このように祈ってみてください。「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」(マタイ6章12節)

2011年9月18日日曜日

神様の最高傑作

エペソ人への手紙2章1~10節
1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――
6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

「見よ。それは非常によかった。」(創世記1:31)私たちは、神様によって創られた非常に良い傑作品であり、祝福を受けるべき存在であると聖書は語っています。価値ある存在、尊い存在だとも語っています。しかし、今日多くの人のが、自分の本当の価値に気が付いていません。それどころか、自分の価値を自らが下げてさえいるのである。我欲(物欲や、金銭欲、性欲など)に支配された人間は、一時の快楽と歓びを味わうことができるかも知れませんが、しかしそれが度を過ぎてしまうと、自らを楽しませるどころか、かえって自らを傷付けたり、人間としての価値を下げてしまうことにもなってしまいます。聖書はそれを「自分の罪過と罪との中に死んでいる」状態だと語ります。神の御怒りを受けても弁解の余地がない、仕方がないのだとも語ります。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちに対するその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいた私たち生かしてくださいました。それは、決して滅びに至らないいのち、完全ないのち、罪のないキリストのいのちをもって私たちを贖って下さったのです。私たちの徳や、功績や、善行や、修行の結果ではなく、ただ神の一方的な憐みのゆえです。例え私たちが自分のことをどのように思っていようが、そのように評価していようが、主イエスを信じ、キリストのいのちが留まるならば、私たちを神のかたちに新しく再創造してくださり、良い行いに歩むことが出来る者、本当に価値ある生き方をすることが出来る者としてくださるのです。どうぞこの完全ないのち、完全な愛を受け取ってください。

2011年9月4日日曜日

栄光の主イエス・キリスト

エペソ人への手紙1章20~21節

20神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

神の御子であり、栄光の王であるイエス・キリストはすべての名の上に置かれるべきお方です。王の王、主の主です。しかし、2000年前の地上における主イエスの生涯は、しもべの姿として仕えられました。『・・・彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。・・・』(イザヤ書53章2~3節)
ですが今や、主イエスは死を打ち破り、天に昇られ、今や栄光の姿でこの世を支配しておられます。そして、教会にイエス様の権能の力を与えて下さいました。教会にはイエス様が満ちておられ、教会はイエス様の愛によって立て上げられているのです。ここでいう教会とは、建物のことでも、組織のことでも、宗教団体のことでもありません。教会はギリシヤ語では、エクレーシヤといい、神様の恵みよって、召集された神の契約の民の集まりのことをいいます。ですから、教会の主体、教会のかしらはイエス様であり、教会はイエス様ご自身のものです。個人の占有物でもなければ、上に立つ者が自らを誇る場ではありません。栄光の王である、主だけが崇められ、褒め称えられる場であり、私たちがひざまずく場です。

2011年8月28日日曜日

全ての栄光は主に

第一コリント書10章31~33節

31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。
32 ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。
33 私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。

自分にとって利益となることを嫌がる人はいないでしょう。また自分が成功することを喜ばない人もいないでしょう。しかし、もし自分に利益があっても、そのことによって結果、誰かをつまずかせることになってしまったとするならどうでしょう。
聖書は、あなたがたは何をするにもすべての栄光は神様に捧げなさいと語ります。あなたが成功しなくても良い、利益がなくても良いという意味ではありません。ただあなたは自分一人で存在しているのではなく、また自分の能力だけで功績をあげるわけではないということです。神様が自分に機会を与え、賜物を与え、助けてを与えて下さっているのだということを忘れてはならないと、感謝を忘れてはならないというのです。 旧約聖書の創世記10章にニムロデという人が出てきます。この人は「地上で最初の権力者」であり、 『彼は主のおかげで、力ある猟師になったので、「主のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ。」と言われるようになった。』(創10:9)とあります。彼の治めた王国は「シヌアル」の地とありますが、しかし、その地には後に、神の裁きが下り、人々が散らされる結果となってしまします。なぜでしょう。それは人々が栄光を神に帰さないで、今の自分たちの繁栄があるのは神のおかげだということを忘れ、傲慢になり、人間の力で神に近づき、神のようになろうとしたからです。『われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。』(創11:4)神様のおかげで、与えられた地に、神の名ではなく、自分たちの名を残そうとしたのです。そう、これは有名なバベルの塔のお話です。神様のおかげだということを忘れてはならない場所、神様に栄光を捧げるべきシヌアルの地に、背信と裁きの象徴であるバベルを築いてしまったのです。
すべての栄光は主にあります。私たちを創り、治め、また救いに導いて下さった主こそが栄光を受けられるにふさわしいお方です。

2011年8月12日金曜日

賛美の力

詩編34編1~6節
 1 私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。
 2 私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。
 3 私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。
 4 私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。
 5 彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。「彼らの顔をはずかしめないでください。」
 6 この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、彼らはすべての苦しみから救われた。

賛美は、神様が私たちの授けて下さった素晴らしい賜物です。賛美は単なる歌ではありません。順境の時も、いやむしろ逆境の時にこそ賛美をすることができるのです。それは、私たちの内におられる主が永遠のお方であり、いつも私たちに希望を与え、信仰を与えて下さるからです。
ファニー・クロスビーという人は、生涯を主と共に生きた人です。しかし、彼女の生涯は、初めから障害に満ちていました。生後6週間で、眼科医の医療ミスにより両目の視力を完全に失ってしまいます。盲目ゆえの差別や不条理、理不尽な体験を余儀なくされてしまいました。しかし、彼女が30歳の時、「光」に出会います。その光はどんなに彼女の心を暗く覆う闇が迫ってきても、彼女の中で圧倒的に光輝き、希望を与えました。それはイエス・キリストという光です。彼女は45歳から本格的な賛美歌を作り始めました。そして亡くなる95歳までに、生涯8000を超える賛美歌を作りました。実に年間160曲です。彼女の口にはいつも主への賛美がありました。ほめたたえがありました。祈りがありました。主イエスを心に受け入れ、主と共に歩むなら、どんなに恐怖が襲い掛かって来ても、苦しみの中にあっても、賛美の力、祈りの力により、闇に打ち勝つ光が私たちを輝かせるのです。

2011年7月14日木曜日

神様の計画と人生の目的

エペソ人への手紙1章1節~6節

1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。
2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
6 それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。


この世界と私たちを創られた唯一の神様は、私たちを神様の目的に従って創造されました。その目的とは、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いを信じることにより、神の御前で聖別され、神の子とされること。そして、私たちの存在を通して神様がほめたたえられることです。その計画は私たちが神様を意識する前から、母の胎に形作られる以前から、いやこの世界の基が置かれる前からの永遠の計画なのだと聖書は語ります。神の御前で、どんな罪人であろうが、孤独な者であろうが、私たちが神様に立ち返るならば、神様はいかに私たちを愛し、慈しみ、尊んでおられるのか、そして、自分に向けられた神様の救いがどんなに素晴らしいものであるのか、私たちがこの世に生を受けた本当の意味が分かるのです。

2011年7月12日火曜日

コリアンナイトフェスティバルのお知らせ





今年も基督兄弟団大宮教会では、韓国からの青年たちをお招きして、コリアンナイトフェスティバルを開催いたします。おいしくてスタミナ満点の韓国料理、現代的な韓国のパフォーマンス、バイブルメッセージなど内容盛りだくさんです。どうぞ、ご家族で、ご友人でお気軽にお越しください。入場は無料です。(食事代ももちろんかかりませんよ)会場は出入り自由ですから、とりあえず遊びに来て観て、韓国の文化に触れてみてはいかがでしょうか。
7月30日(土)夕方5:30-9:00です。お待ちしてます!

2011年7月6日水曜日

悪しき勢力に気をつけなさい

ヨハネの手紙第一5章16節~21節
16 だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。
17 不正はみな罪ですが 、死に至らない罪があります。
18 神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。
19 私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。
20 しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。
21 子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。

すべての人間にとって、決して避けることができないこと。それは「死」の問題です。善人だろうが悪人だろうが、健康な人だろうが病弱な人だろうが、長寿だろうが短命だろうが、結局誰一人として、死から逃れることはできません。 人類が神から離れ、罪が入り込んだ結果、『罪から来る報酬は死です。』(ローマ書6章23節)となったのです。
しかし、この箇所が意味する「死」は。所謂、肉体の死ではなく、魂の死(第2の死)の問題を扱っています。肉体の死が終わった後の、永遠の世界(死後の世界)の問題のことです。 すなわち、永遠の御国(天国)の祝福を預かることができるのか、それとも永遠の刑罰(地獄)が待っているのか。
キリスト教信仰の神髄は、死んだ後に明確な答えを持っていることです。即ち、神の御子イエス・キリストを自らの罪の身代わりに十字架にかかって死んでくださり、しかし、三日の後によみがえって下さったと信じる信仰によって、罪から解放され義とされて、永遠のいのちを持つことができるということです。信じる者達は神が罪の支配、悪い者(サタン)の力から守って下さるのです(18節)。
死に至る罪を犯す者とは、人々を神の支配から引き離そうとするもの、イエス・キリストの恵みと憐れみの世界から、人々を引き離そうとする勢力のことを意味します。信じるあなた方は、その悪しき勢力を警戒し、また守られるようにと、ヨハネは願っているのです。どうぞ真実はお方であり、永遠のいのちの源である主イエス・キリストから離れないでください。

2011年6月29日水曜日

ベストアンサー

第一ヨハネ5章15節
『私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。』

出エジプト記17章に、エジプトを出て約束の地を目指すイスラエルの民が、アマレクと戦い勝利した記事があります。指導者であるモーセは、丘の頂に上って手をあげて祈りを捧げました。モーセが手を上げているとイスラエルが優勢になり、手を下ろすとアマレクが優勢になったとの有名な話です。多くのクリスチャンはこの話を知っています。しかしホントに重要なのは話を「知っている」ことではなく、この話のように、実際に「祈りによって勝利した」体験を持つことなのです。聖書ははっきりと私たちに語りかけます。「何でも神のみこころに叶う願い(祈り)をするなら、神はその願い(祈り)を聞いて下さり、そして、その願い(祈り)はすでに叶えられた」のだと。マルコの11章24節にも『祈って求めるものは何でもすでに受けたと信じなさい。そうすればその通りになります。』とあります。
ここで大切なのは、信仰です。祈りは必ず答えらえるのだ、いや既に神のみこころのままに答えられているのだという信仰です。主が祈りに答えて下さる訳ですから、答えられる形は様々です。祈った通りに答えらえることもあるし、祈ったこととは別な形で答えられることもあるでしょう。しかし、すべては全能の主がなさることですから、その答えは最善です。
答えられるタイミングもそれぞれです。緊急性のある祈りなら、すぐに答えられるかも知れませんし、1週間後、1か月後、祈りによっては或いは1年後、10年後かも知れません。ですから祈りを捧げた聖徒が取るべき態度は以下の言葉です。『あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。』(ヘブル10章36節)
主なる神は、信仰と忍耐と御霊のとりなしによって御心を求める祈りを一つとして地に落とすことなく、必ず聞き入れ、そしてご自身のみこころのままに、私たちにとって最善の答えを下さるのです。

2011年6月22日水曜日

神の御心にかなう祈り

第一ヨハネ5章14節
『何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。』

天の神様は、イエスの御名による祈りをすべて聞いて下さいます。幼い子どもの祈りでも、熟練した信仰者の祈りでも、神様はすべての者の祈りを聞いて下さり、ご自身の御心のままに御業を成してくださいます。しかし、ここで大事なことは、『何事でも神のみこころにかなう願いをするなら』ということです。主イエス様の祈りはいつも天の父の御心を求めていました。主が弟子たちに教えて下さった「主の祈り」でも、『みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。』と天の御心を求めなさいと言われました。また、弟子に裏切られ、十字架に磔にされ殺される前に捧げたゲツセマネの祈りにおいてさえも、『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。・・・わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』と天の父の御心を求め祈られました。
天の御心が成るならば、それはすべて私たちにとっては感謝なことであり、最善のことです。祝福だとも言えます。ですが、その最善はいつも喜ばしいこと、嬉しいことばかりとは限りません。時には挫折したり、壁にぶち当たったり、思いがけない困難や悲しみを経験することもあるのです。しかし、もし、その悲しみが『神のみこころに沿った悲しみ』ならば、『悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます』(第2コリント7章10節)。私たちを整え、聖別し、さらに深い主の恵みの世界へと導いてくれるのです。自分の欲望や野望を叶える自己中心的な祈りではなく、また、パリサイ人のように、人に見せつけ、人から賞賛されるための欺瞞の祈りでもなく、主の御心を求める祈りこそがあなたにとって最善であり、祝福の道なのです。

2011年6月15日水曜日

ペンテコステの喜び

ルカの福音書24章49節
『さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。』

今週の主日はペンテコステ(五旬節)礼拝でした。ところで、ペンテコステとは何のことでしょうか。
ペンテコステ(五旬節)とは、50日目の祭日という意味で、大麦の初穂の束をささげる日から数えて50日目(7週間後)に行われた祭り(七週の祭りとも言う)がその起源です。立ち穂に鎌が入れられて始まった大麦の収穫の終りを意味するとともに、小麦の収穫の時でもあります。それゆえ「刈り入れの祭り」(出23:16)、「初穂の日」(民28:26)とも呼ばれています。この祭はイスラエルの3大祭(種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭り)の一つであり、その日にはいかなる労働もしてはならず、聖なる会合が開かれて、イスラエル人のすべての男子は主の前に出ることが義務づけられていました。まさに、収穫の恵みに対する感謝と主に対する畏れを表現した祭りと言えます。

十字架上の死と葬りから3日の後に復活したイエスは、弟子たちに神の国の福音を委ねます。「あなたがたは、キリストの復活の証人」だと。しかし、弱く、信仰が不足した、イエス様がいないと何とも頼りない彼らにすべてを任せたのではありません。『わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。』(ヨハネの福音書14章16,17節)との言葉通り、聖霊を彼らに送ると約束して下さったのです。聖霊は、助ける神であり、人々にイエスを指し示す神であり、イエスご自身と同じ三位一体の神です。だからあなたがたは出て行く前に、そのお方を待ちなさい、聖霊を受けなさいと言われたのです。そして、その約束の聖霊が降られた日がまさに五旬節、ペンテコステの朝でした。聖霊が降られるまで、弟子たちは集まって祈りをしていたと聖書には記されています。おそらく弟子達は、主のみ前に悔い改め、ひれ伏し、悔い改め、熱心に祈っていたことでしょう。そして、聖霊を受けた彼らは、いよいよ力に満ち溢れて、イエスの復活と神の国を証しします。使徒の働き2章には、1日に3千人がイエスを信じ救われ、さらに毎日心を一つにして主を喜び礼拝し、救われる人が起こされたとあります。まさに、旧約時代の7週の祭りのごとく、彼らは収穫の恵みに対する感謝と主に対する畏れを体験したのでした。

この約束は彼らだけのものではありません。新約時代を生きる私たちにも御霊の約束が与えられています。御霊を受けましょう。共に主を喜び、主を畏れましょう。

2011年5月31日火曜日

6月2日ですが

6月2日(木)の午前の祈り会ですが、夜の部と合同で行います。お間違えの無いように。

6月5日の礼拝

6月5日の礼拝は聖餐礼拝です。主任牧師が御用をします。

真理を証しするもの

第一ヨハネ5章6~13節

6 このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。
7 あかしするものが三つあります。
8 御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。
9 もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。
10 神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。
11 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。
13 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。

真のキリスト者とは、心に御子イエスを持っている者です。イエスの十字架によって罪赦されたことを大胆に証しする者です。水(バプテスマ)と血(十字架)により、新しくされ、聖められた者です。自分を誇るのではなく、自分を証しするのでもなく、何よりもイエス・キリストを自らの主として、イエス・キリストを一番の誇りとして歩む者です。どんなに洗練された礼拝を捧げても、美しい賛美を捧げても、どんなに立派なことを宣べても、自らを罪人であると認め、且つ、十字架により罪赦され、永遠のいのちに預かったのだという確信が無いならば、それはむなしい信仰です。救いの業とはすべて、自分の業ではなく、ただ御霊なる神の恵みなのです。なぜなら御霊が真理(6)だからです。『私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。』(Ⅱテモテ2:13)

2011年5月26日木曜日

世に打ち勝つ信仰

ヨハネの手紙第一 5章1節~5節
1 イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。
2 私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。
3 神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。
4 なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
5 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

神は、私たちを無限の愛で愛してくださいます。その神が私たちに下さる命令(みことば)は、まさに愛の内にある命令です。私たちから自由を奪い、服従させ、苦しみの支配させるためのものではありません。むしろ、神の命令は、私たちを自由にし、罪から解放させ、喜びと希望に溢れた生き方を与えるためのものです。そして、世の力に打ち勝つ力を与えるものです。
もし、この命令(みことば)に従わないならば、どうなるでしょう。世の力に飲み込まれ、罪の力によって、滅びの道に至ってしまいます。
主イエスの命令は、主を信じる者たちにとっては、重荷とはなりません。負いやすく、魂に安らぎをもたらすのです。

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。』

2011年5月19日木曜日

恐れを取り除く主の愛

ヨハネの手紙第一 4章13節~21節
13 神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。
14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。
15 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。
16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。
17 このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。
18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。
19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
20 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
21 神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。

 人間が神から離れた(罪を犯した)結果もたらされた感情の一つが「恐れ」です。この世は、私たちを恐れさせるもので満ちています。自然災害の脅威は恐れをもたらします。また、自分が持っているものを失うことは、それ以上の恐れかも知れません。健康、仕事、財産や地位、愛する者が突然私たちから失われてしまうとするならば、ぞっとします。
 しかし、聖書には決して失われないものがあると言います。それは「永遠」です。神様ご自身は永遠のお方であり、その神様が私たちに注いでくださる愛もまた「永遠」のものです。「永遠」を手に入れた者は、例えすべてを失ったとしても、決して絶望せず、希望を持つことができます。
 韓国の女子大生だったイ・チソンさんは、ある日、交通事故に遭ってしまい、全身に大やけどを負い、その美しい顔を顔を失ってしましました。人々は容赦なしに彼女を好奇の目で見つめ、心無い言葉で彼女を苦しめました。しかし、彼女は彼女は言います。「私は幸せです」「以前の姿に戻りたくはありません」と。なぜでしょう。彼女は語ります。 
「確かに私はこの苦難により、外から見えるものは失われましたが、代わりに目に見えないまことの宝物を与えられたのです。元に戻ってしまうと、神様から頂いたこの宝も失ってしまうから戻りたくないのです。」
 あなたにも神様からの永遠の宝物である、愛が注がれています。永遠のいのちが約束されています。どうか、いつか消えゆく有限のものから、決して失われない永遠のものに目を向けてください。永遠の神の愛が、失うことへの恐れからあなたを解放させるのです。

2011年5月11日水曜日

愛による絆(2011.5.8礼拝メッセージ)

ヨハネの手紙第一4章7節~12節
 7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
 8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
 9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
 10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
 11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
 12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

いま「絆」という言葉が、頻繁に使われています。「絆」により私たちが一つとされて、震災により傷ついた人々が立ち上がることを切に祈ります。
聖書は、人と人とを結びつける絆を「愛」で結びなさいと言います。『愛は結びの帯として完全なものです。』(コロサイ3章14節)
ここでいう「愛」とは、アガペーの愛(神の愛)を意味します。相手が誰であれ、どんな状態であれ、例えこちらが犠牲を払うことになったとしても、命すら惜しまず、犠牲的な心で愛することがアガペーです。絶対的な愛であり、決して変わらない永遠のものです。
それに対し私たちはが一般的に考える愛は、相対的です。自分に不利益なことが生じたり、報いが返ってこなかったり、自分の期待を裏切るような結果になる場合、愛が冷めてしまったり、どこかへ消えてしまいます。
この世を造られた神と人類との間には、本来強い絆がありました。平安と平和がいつもありました。何の悩みも苦しみもありませんでした。しかし、人類が神を離れ罪を犯したが故に、その絆を人類が断ち切ってしまいました。それ以降、この世には争いや悲しみ、苦しみが絶えないのです。
しかし、神の御子イエス・キリストがアガペーの愛で私たちを愛してくださいました。罪により滅びなければならない私たちの身代わりに十字架で死んでくださることによって、神と人類との間にあった絆を回復させてくださいました。
今こそ、この絆を取り戻すときです。イエス・キリストが示された愛に生きるときです。日本の国にアガペーの愛による絆が回復しますように、イエス・キリストの御名で祈ります。

2011年4月27日水曜日

イースターの意味

今週日曜日はイースターでした。
ところで、イースターって何の日かご存知でしたでしょうか。
イースターは復活日とも言い、神の御子イエス・キリストが、人類のすべての罪を背負って十字架に磔にされ、殺されて葬られましたが、3日の後に復活したことを喜び、これを記念し、お祝いする日です。
復活日の日付は時代と共に様々変化してきましたが、今日行われている復活日制定法は「春分(3月21日)後の最初の満月の後に来る第1日曜日」を復活日と定めています。ですから、今年は4月24日。ちなみに、来年は4月8日です。今年よりだいぶ早くなりますね。

2011年4月22日金曜日

イースター礼拝

4月24日はイースター礼拝です。
イエス様の復活を祝う礼拝です。
是非お越しください。
心よりお待ちしております。

2011年4月12日火曜日

大宮教会HPリニューアル

2011年4月
HPをリニューアルいたしました。
今後、教会での恵みをこの場をお借りして
みなさまと共有したいと考えています。