2011年11月28日月曜日

アドヴェントに入りました

今週から教会ではアドヴェント(待降節)に入りました。ところで、アドヴェントとは何でしょう。新聖書辞典によれば以下のようになります。

■たいこうせつ 待降節 聖誕節に備える教会暦の期間でアドベントとも呼ばれ,キリストの初臨と再臨の両方にこの「表れ,来臨」を意味する語(〈ラ〉Adventus)が使われている。教会暦の始まりを意味し、また再臨への備えをも含意するこの期間は、歴史的には復活節に備えるレントと共に定着した。東方教会で初めに覚えられるようになり、西方教会ではグレゴリウス1世(590―604年在位)以前の記録はないようである。最初はバプテスマに備える期間としてレントと共に覚えられたと思われ、その長さも6週間とか4週間とかいろいろであった。しかし現在は西方教会で規定された暦で守られるようになり、聖アンデレ日(11月30日)に最も近い日曜日がアドベント主日、つまり待降節の始まりとされている。聖誕節そのものの月日に論議もあるが、主の来臨を年ごとに深く覚えるために、早くから備えるこの期間は有益である。

因みに今年は11月27から12月24日の期間がアドヴェントになります。ですから、クリスマスはイエス・キリストのご降誕を祝い礼拝するとともに、再臨の主をいよいよ待ち望みつつ、祈り備えることと、この良き訪れをすべての人々に伝えるときなのです。そして、やがて主イエス様がお越しくださった後には、聖徒は天の御国でイエス様とともにお祝いをするのです。

イエスの系譜に連なる者

マタイの福音書1章1~17節
1 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。
2 アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、
3 ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、
4 アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、
5 サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが 生まれ、オベデにエッサイが生まれ、
6 エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、
7 ソロモンにレハベアムが生まれ、レハベアムにアビヤが生まれ、アビヤにアサが生まれ、
8 アサにヨサパテが生まれ、ヨサパテにヨラムが生まれ、ヨラムにウジヤが生まれ、
9 ウジヤにヨタムが生まれ、ヨタムにアハズが生まれ、アハズにヒゼキヤが生まれ、
10 ヒゼキヤにマナセが生まれ、マナセにアモンが生まれ、アモンにヨシヤが生まれ、
11 ヨシヤに、バビロン移住のころエコニヤとその兄弟たちが生まれた。
12 バビロン移住の後、エコニヤにサラテルが生まれ、サラテルにゾロバベルが生まれ、
13 ゾロバベルにアビウデが生まれ、アビウデにエリヤキムが生まれ、エリヤキムにアゾルが生まれ、
14 アゾルにサドクが生まれ、サドクにアキムが生まれ、アキムにエリウデが生まれ、
15 エリウデにエレアザルが生まれ、エレアザルにマタンが生まれ、マタンにヤコブが生まれ、
16 ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。
17 それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。
18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。


イエス・キリストの系図は、単なる家系図ではありません。ここに登場する系図という言葉は、「創造の経緯、記録」という意味があり、本書が創世記に対応しているとともに、イエス・キリストによって天地の創造に匹敵する新しい創造が起こることを示唆しています。ここに記されている人物たちは、神に対し忠実に信仰者として優れた人生を送った人もいますし、また神の御心に背き、悲惨な最期を遂げた人物も含まれています。そのような意味では、神の独り子であり、全人類の救い主の系図としてはふさわしくないと思われるかもしれません。しかし、ここでの大切なのは、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じ、受け入れ、即ち「新しく創造」されるならば、すべての人が、霊的にアブラハムの子孫とされ、神の子とされるということなのです。そして、私たちの名が天国の系図に書き記されるのです。

2011年11月9日水曜日

召天者記念礼拝

さいたま市北区のキリスト教会


来週11月13日の主日は召天者記念礼拝です。
地上での信仰生活を全うし、先に天の御国へ凱旋された方々を偲び、私たちもまた天における復活と栄化の希望を覚えながら、神に感謝を捧げる礼拝です。司式者は、基督兄弟団秋田べテル教会の中田元牧師です。

私は神様のもの

詩編119編89~96節
89 主よ。あなたのことばは、とこしえから、天において定まっています。
90 あなたの真実は代々に至ります。あなたが地を据えたので、地は堅く立っています。
91 それらはきょうも、あなたの定めにしたがって堅く立っています。すべては、あなたのしもべだからです。
92 もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。
93 私はあなたの戒めを決して忘れません。それによって、あなたは私を生かしてくださったからです。
94 私はあなたのもの。どうか私をお救いください。私は、あなたの戒めを、求めています。
95 悪者どもは、私を滅ぼそうと、私を待ち伏せています。しかし私はあなたのさとしを聞き取ります。
96 私は、すべての全きものにも、終わりのあることを見ました。しかし、あなたの仰せは、すばらしく広いのです。

誰でも生きていくうえで、悩みはあるものです。自分の力で解決できる問題なら努力すれば良いでしょうが、時にはどうにもならないことが起こることもあります。その時に、そのどうにもやりきれない思いをどう処理すれば良いでしょうか。ある人は「あいつのせいだ」「世間のせいだ」「天のせいだ」といったように誰かのせいにして、怒りや憎しみをぶつけることで、自らを保とうとするかもしれません。この詩編の記者もまた理不尽な悪者どもに苦しめられている状況の中にいます。しかし、詩人は「自分の悩みの中」から神の言葉によって救い出されたのだと告白しています。それは、誰が何と言おうと、何をしようと、いかに自分の存在を脅かそうとしても、自分は神のものであり、神の子どもであり、神の保護の中にいるのだという強い信仰の告白です。悩みに勝る喜びが神の言葉にはあるというのです。その通り、神の言葉はいつも真実です。時代や環境に左右されず、堅固で、私たちを決して失望させません。その神の言葉が私の喜びであるならば、深い悩みの中でも勝利することが出来るのです。

2011年11月4日金曜日

神を知るには

エペソ人への手紙3章1~6節
1 こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。
2 あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の務めについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。
3 先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。
4 それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。
5 この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。
6 その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。

信仰生活の中で、私たちは様々な神様の恵みを体験しますが、その御業がどのような形でなされるか、いつ起こるかなどは、人が悟ることはできません。当然ながら人が操作することもできません。それはまさに「神の業」であり、人知を遥かに超えた神の力によって成し遂げられるからです。「罪からの救い」ひとつを考えてみてもそうでしょう。十字架の贖罪は、科学万能主義の現代に生きる我々が理性だけで悟ることができるでしょうか。いいえ、できません。これはすべて神の奥義であり、人間の努力や修行によって、到達するのではなく、神からの啓示によって示され、聖霊によって悟るという神の奥義なのです。神はこの世の知者や賢者、権力者、立派な宗教家などといった特定の選ばれた者を通して、ご自身を表わすのではありません。どんな人でも、たとえ人から愚かだと言われるような者であったとしても、謙遜に主を求め、自らの罪を認め、告白し、へりくだって祈るものであるなら、主はご自身を聖書を通して、啓示され、臨んでくださいます。そして、天の御国を受け継ぐ者にしてくださるのです。