2013年12月15日日曜日

2013クリスマス集会

さいたま市北区のキリスト教会 キリスト兄弟団大宮教会

2013クリスマス集会のご案内

クリスマスはどのように過ごされますか。予定がまだの人も、もう何をするか決めている人も、今年はキリスト教会で本当のクリスマスを体験してみませんか。日時は以下の通りです。
是非、ご家族、ご友人などをお誘いの上お越しください。もちろん、教会が初めてという方も大歓迎です。教会はクリスチャンだけのものではありません。すべての人にいつでも開かれています。
心よりお待ちしています。



2013年10月7日月曜日

この時のために

エステル記4章1~16節
 1 モルデカイは、なされたすべてのことを知った。すると、モルデカイは着物を引き裂き、荒布をまとい、灰をかぶり、大声でひどくわめき叫びながら町の真中に出て行き、
 2 王の門の前まで来た。だれも荒布をまとったままでは、王の門にはいることができなかったからである。
 3 王の命令とその法令が届いたどの州においても、ユダヤ人のうちに大きな悲しみと、断食と、泣き声と、嘆きとが起こり、多くの者は荒布を着て灰の上にすわった。
 4 そのとき、エステルの侍女たちと、その宦官たちがはいって来て、彼女にこのことを告げたので、王妃はひどく悲しみ、モルデカイに着物を送って、それを着させ、荒布を脱がせようとしたが、彼はそれを受け取らなかった。
 5 そこでエステルは、王の宦官のひとりで、王が彼女に仕えさせるために任命していたハタクを呼び寄せ、モルデカイのところへ行って、これはどういうわけか、また何のためかと聞いて来るように命じた。
 6 それで、ハタクは王の門の前の町の広場にいるモルデカイのところに出て行った。
 7 モルデカイは自分の身に起こったことを全部、彼に告げ、ハマンがユダヤ人を滅ぼすために、王の金庫に納めると約束した正確な金額をも告げた。
 8 モルデカイはまた、ユダヤ人を滅ぼすためにシュシャンで発布された法令の文書の写しをハタクに渡し、それをエステルに見せて、事情を知らせてくれと言い、また、彼女が王のところに行って、自分の民族のために王にあわれみを求めるように彼女に言いつけてくれと頼んだ。
 9 ハタクは帰って来て、モルデカイの伝言をエステルに伝えた。
 10 するとエステルはハタクに命じて、モルデカイにこう伝えさせた。
 11 「王の家臣も、王の諸州の民族もみな、男でも女でも、だれでも、召されないで内庭にはいり、王のところに行く者は死刑に処せられるという一つの法令があることを知っております。しかし、王がその者に金の笏を差し伸ばせば、その者は生きます。でも、私はこの三十日間、まだ、王のところへ行くようにと召されていません。」
 12 彼がエステルのことばをモルデカイに伝えると、
 13 モルデカイはエステルに返事を送って言った。「あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。
 14 もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」
 15 エステルはモルデカイに返事を送って言った。
 16 「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」

 私たちがこの世に生を与えられた目的は何でしょうか。それは神の栄光が自分という存在を通して表わされることです。そのためには神様への絶対的な信頼と信仰、そしてみ言葉に従順であるということが問われます。エステルが王妃としてペルシャの国に嫁いだのには目的がありました。それはユダヤ民族を滅亡の危機から救うというものでした。そのことを通して神の御業が表わされることを願って、神はエステルを選ばれました。養父のモルデカイはエステルに語ります。「モルデカイはまた、ユダヤ人を滅ぼすためにシュシャンで発布された法令の文書の写しをハタクに渡し、それをエステルに見せて、事情を知らせてくれと言い、また、彼女が王のところに行って、自分の民族のために王にあわれみを求めるように彼女に言いつけてくれと頼んだ。」(8節)「もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」(14節)この神から与えられた召しは、決して易しいものではありません。なぜなら、王に民族抹殺の法令の取り消しを願うことは、それこそ自分の命を懸けなければならなかったからです。「王の家臣も、王の諸州の民族もみな、男でも女でも、だれでも、召されないで内庭にはいり、王のところに行く者は死刑に処せられるという一つの法令があるを知っております。しかし、王がその者に金の笏を差し伸ばせば、その者は生きます。でも、私はこの三十日間、まだ、王のところへ行くようにと召されていません。」(11節)
 しかし、エステルが取った決断はこうでした。 「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」(16節)彼女は自分の命が主のものであることを悟っていました。また自分の使命に対してまっすぐに向き合いました。自分の信仰の決断が民族を救うのだということを彼女は信じ従いました。神はすべての人を召しておられます。その目的や用い方は違いますが、神の召しは普遍的であり、主権的なものです。あなたを通してでしか現わされない神の業があるのです。

2013年9月16日月曜日

秋の特別礼拝

さいたま市北区のキリスト教会


初めての聖書~分かりやすい聖書の話

聖書は、国や文化、言語、時代を超えて人々に愛され続けている世界のベストセラーです。今や世界の2700以上の言語に翻訳されていることからもその影響力の大きさが分かります。聖書は神の知恵と愛の結晶であり、読む者に希望を与え、罪からの救いに至らせる唯一の書物です。聖書について関心がある方、学んでみたい方、どうぞお越しください。

日時 9月22日(日)
    午前10時30分~12時

お待ちしてます!!


2013年8月19日月曜日

特別礼拝のご案内

さいたま市北区のキリスト教会

キリスト兄弟団大宮教会では、8月25日(日)に横浜教会牧師の小野寺その枝先生をお迎えして「心のいやしの礼拝」を致します。先生のお証しと開かれる聖書の言葉を通して主イエスさまの癒しを受け取りましょう。席上献金の時がありますが、入場は無料です。どなたでもお気軽にお越しください。もちろんクリスチャンじゃなくても大歓迎ですよ。

日時 8月25日(日)10:30~12:00
会場 キリスト兄弟団大宮教会礼拝堂

お待ちしてま~す(#^.^#)

2013年8月1日木曜日

真夏のコンサート

さいたま市北区のキリスト教会

今年もやってきました。韓国ホーリネス教会協力による特別プログラム。
今回は、イエス様の愛「真夏のコンサート」として、ダンス、ゴスペル、ハンドマイム、バイブルメッセージなど内容盛り沢山でお送りします。
メッセンジャーは、ソウル聖楽聖潔教会牧師のカン・アニル先生です。
ご期待ください。

日時 2013/8/3(土)19:00~20:30
会場 キリスト兄弟団大宮教会

どなたでもお気軽にお越しください。入場無料です。お待ちしてま~す!!!



2013年7月18日木曜日

主の前に

Ⅰ列王記11章1~13節
  1 ソロモン王は、パロの娘のほかに多くの外国の女、すなわちモアブ人の女、アモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヘテ人の女を愛した。
  2 この女たちは、主がかつてイスラエル人に、「あなたがたは彼らの中にはいって行ってはならない。彼らをもあなたがたの中に入れてはならない。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる。」と言われたその国々の者であった。それなのに、ソロモンは彼女たちを愛して、離れなかった。
  3 彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。
  4 ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。
  5 ソロモンはシドン人の神アシュタロテと、アモン人のあの忌むべきミルコムに従った。
  6 こうしてソロモンは、主の目の前に悪を行ない、父ダビデのようには、主に従い通さなかった。
  7 当時、ソロモンは、モアブの、忌むべきケモシュと、アモン人の、忌むべきモレクのために、エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた。
  8 彼は外国人の自分のすべての妻のためにも、同じようなことをしたので、彼女たちは自分たちの神々に香をたき、いけにえをささげた。
  9 主はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、主から移り変わったからである。主は二度も彼に現われ、
  10 このことについて、ほかの神々に従って行ってはならないと命じておられたのに、彼は主の命令を守らなかったからである。
  11 それゆえ、主はソロモンに仰せられた。「あなたがこのようにふるまい、わたしが命じたわたしの契約とおきてとを守らなかったので、わたしは王国をあなたから必ず引き裂いて、あなたの家来に与える。
  12 しかし、あなたの父ダビデに免じて、あなたの存命中は、そうしないが、あなたの子の手からそれを引き裂こう。
  13 ただし、王国全部を引き裂くのではなく、わたしのしもべダビデと、わたしが選んだエルサレムのために、一つの部族だけをあなたの子に与えよう。」

 ソロモン王はすべてを持っている王でした。地位、名誉、財産、権力、名声、そして知恵に富み、主を畏れ、荘厳な主の神殿を築き上げることができたのもソロモンの治世においてでした。しかし、これらの祝福は彼自身によってもたらされたものではありません。父ダビデの信仰と悔い改め、また、彼自身の主の御心に叶う祈りの結果によってもたらされたということができます。
 彼は父ダビデが罪を犯し、その裁きが下った後に誕生した子ではありましたが、主はダビデの悔い改めを良しとされ、預言者ナタンが「その名をエディデヤ(主に愛される者)と名づけさせた。」(Ⅱサムエル12:25)とあるように、主は彼を愛し、大いに祝福されます。また、 「わが神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中におります。しかも、彼らはあまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど、おびただしい民です。善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」(Ⅰ列3:7-9)と主の御心に叶う祈りを捧げたことによって、神は彼に「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者はひとりもないであろう。」(Ⅰ列3:11-13)と語られました。
 しかし、ソロモンはその治世の後半、主から離れてしまいました。すべてを与えて下さった主に対する畏敬と崇拝がありませんでした。それどころか、忌むべき異教の神々を受け入れ、従い、主の目の前に悪を行ってしまいました。結果、国家は分断され、王国はやがて崩壊へと進んでいくことになります。なぜ、こうなってしまったのでしょうか。キーワードは「主の前に」「主の目の前に」と言う言葉です。これが列王記をひも解くキーワードです。すべてを手に入れた彼はいつのまにか、主の前にあって、謙遜な心と、心からの礼拝を失ってしまいました。日々の中で主を意識することがなくなると、人はその欲望に従い目に見える満足を求めます。ソロモンはこの世のすべての満足を求め、また体験しましたが、その心は空虚でした。彼の心を埋めることはできませんでした。しかし、そんな中にあっても、彼はダビデのように悔い改め、主を求めることはしませんでした。若き頃のように、謙遜な心で主に祈ることを選びませんでした。「主の前にいること」「主の目に叶う事」を彼はいつの間にか忘れてしまったのです。
 聖書は語ります。「兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。」(Ⅰコリント7:24)

2013年7月9日火曜日

あなたを取り戻す

ルカ19章10節
「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

イザヤ書
「ヤコブよ。これらのことを覚えよ。イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。わたしが、あなたを造り上げた。あなたは、わたし自身のしもべだ。イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」

 この世にあって失ってはいけないものがあります。いのちや財産、あるいは信頼されることも失ってはいけない大切なものです。しかし、もっとも人間が失ってはいけなかったのに、失ってしまったものがあります。それは「神様との交わり」です。このことを失ってしまったがゆえに、人間は罪の世界で苦悩するようになりました。神様から離れた状態では、いかに優れた科学の力や思想や政治システムをもってしても、結局はバベルの塔を建て上げ、得るどころかかえって失うことになるのです。では、私たちはどうすれば良いのでしょうか。感謝なことに、神様は永遠に存在される方であり、私たちに向けられたその愛はこの世の終わりまで決して耐えることはありません。私たちは神様の事を忘れてしまっても、神様は私たちの事を忘れないと聖書は語ります。しかも、忘れたくても忘れられない、消し去りたくても消し去ることができない、罪の記憶をイエス・キリストだけが消し去って下さるのです。十字架の血潮でまったくきれいに拭い去って下さるのです。なぜならばイエス様がこの世に来られた目的は「失われた人を捜して救うため」だからです。主イエス様の元に帰りましょう。帰るのはいつですか。今です。

2013年7月1日月曜日

心の転換

Ⅱペテロ3章9節
 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

 イスラエル人たちが最も敬愛し、誇らしく思っている人物の一人がダビデ王です。ダビデはイスラエル第2代目の王(BC1010~970)であり、王国が最も栄えた時でもありました。羊飼いとして育った彼は勇士であり、一流の政治家であり、敵(サウル)をも愛し、多くの詩と賛美を残した文化人でもありました。詩編150篇のうち、実に73篇がダビデに関連した詩です。しかも、イエス様は彼の系譜から降誕なさり、イエス様自身も「わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」(黙示録22:16)とご自身の事を表しておられます。
 しかし、そんなダビデであっても、完璧な人ではありませんでした。子どもの教育には決して成功したとは言えませんし、晩年には明らかに神様の御心に背いた人口調査を行いました。そして何よりも彼の人生の最大の汚点は、Ⅱサムエル11章~12章に描かれているバテシェバ事件でしょう。部下ウリヤの妻であったバテシェバを手に入れるため、計画的に、しかも自分の手を汚すことなく、ウリヤを殺したのです。しかも最も悪いことは、計画が成功した時点において、ダビデは良心が痛むことがなかったという点です。とても同じ人物がすることとは思えません。しかし、これこそが人間の持つ罪の正体なのです。人間は神のかたちに創られました。神のうちには暗い所がまったくありませんので、私たちの本来の姿は、愛に満ち、寛容で、親切で、誠実な人格が基本的に備わっているはずです。しかし、神から離れてしまった人類には、罪の性質が入ってしまい、誰かを愛しながらも、傷つけ、仕えながらも、裏切り、誠実な心の一方で傲慢で人を見下してしまうという、まことに矛盾した存在になってしまったのです。聖書は皆から尊敬され愛されているダビデのうちにあるこのような罪の性質に蓋をすることなく、むしろ明らかにすることによって、私たちに悔い改めを迫ってくるのです。どこまでも、忍耐強く、どんな人でも決して滅んで欲しくないという神様の無限大の愛をもって、今日も主は私たちに語りかけます。ダビデは罪を指摘されてすぐに悔い改めました(詩51)。今、あなたの心は神様に向かっていますか。どのような告白がありますか。

2013年6月11日火曜日

慰めを与える神の愛

ルツ記1章16~17節
 16 ルツは言った。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。
 17 あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」

 最愛の夫と2人の息子を亡くしたイスラエル人の姑ナオミと夫に先立たれた外国人の嫁ルツ。ナオミは、自分のことをナオミではなく、マラ(苦しみ)と呼んで下さいと言うほど喪失感と悲しみの中にいました。これから先、一体どのように生きて行けばよいのだろうか。どこに希望を見出せばよいのだろうか。そんなナオミに対し、嫁のルツは3つの愛を持ってナオミを励まします。ナオミに対する愛、イスラエル民族に対する愛、そして神に対する愛です。しかし、ルツ自身は決して喜ばしい状況にいたわけではありません。ルツも一人の女性として将来に様々な夢を描いていたことでしょう。幸せな家庭生活を期待して結婚したはずです。しかし、現実は夫に先立たれ、外国の地で、姑と2人が残されただけ。ナオミと同様にルツも苦しかったはずです。しかし、注目すべきはルツは外国人(多神教のモアブ人)でありながら、「あなたの神は私の神です。」と信仰告白をしている点です。ナオミから天地万物を創造された唯一の神についての話を聞いていたのでしょうか。礼拝している姿を通して感動を受けたのでしょうか。詳細は分かりませんが、ルツ自身がその結婚生活の中で、創造主である神に出会い、大いなる愛に触れたことは間違いないでしょう。その神様から受けた愛を持って、悲しみの中にいる、最も近い隣人と民族を愛するのです。神の愛はすべての障害を乗り越え、平和と慰めをもたらすのです。

2013年4月22日月曜日

春の特別集会&キッズクラブ

さいたま市北区のキリスト教会


キリスト兄弟団大宮教会

2013年春の特別集会ご案内です。
講師は、榊原寛先生(東京シャロームチャペル牧師、ワールド・ビジョン・ジャパン理事長)です。
また同日、午後からはキッズクラブも行われます。
どうぞ、ご家族、ご友人をお誘いの上、集会にお越しください。
お待ちしています。



福音のためなら


Ⅰコリント9章19~23節

19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。
20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。
21 律法を持たない人々に対しては、――私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、――律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。
22 弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。
23 私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。

 パウロは、イエス・キリストによる救いを得てから、その人生を全て「福音宣教」のために捧げたといっても良いでしょう。パウロは、もし福音を伝えることができないのなら、それは禍であると語っています。聖書を見ればよく分かるように、パウロほど福音宣教において、神様に用いられた人物はいなかったでしょう。彼の心にはいつも救霊の情熱がありました。「何とかして一人でも多くの人を救いに導きたい」「例え幾人かであっても、救いに導きたい」
 そんな彼の福音宣教の方法には、大きく二つの側面があります。一つは、すべての人に対して福音を適用したということです。当時の一般的なユダヤ人の考えは、「救いはユダヤ人のみ」というものでした。ユダヤ人こそが、神によって選ばれた契約の民であり、救いを受けるにふさわしい民なのであって、それ以外の異邦人が、救われるなどと言うのは、まったくもって有りえないことであるということでした。しかし、彼は「異邦人の使徒」として、すべての民族に対し、この福音のメッセージを大胆に語り、救いへと導きました。二つ目は、すべての人の奴隷となった。即ち、すべての人に「仕えた」ということです。決して、上から目線で、福音を語ることはしませんでした。同国人であるユダヤ人には当然ですが、律法を持たない異邦人にも、また社会的にも、霊的にも弱い人々にも、彼は寄り添い、同じ目線で福音を語りました。私たち信仰者は、信仰生活が長くなると時として、自分を何か特別な存在に思ってしまう傾向があります。そして、この世が仕えるべき場ではなく、離れるべき対象になってしまうのです。そして、自分たちだけの居心地の良い「教会」を作り上げるのです。教会で話し合われることは、「交わり」中心になり、ますます教会が隔絶されたものになり、この世に対して何の影響力ももたらさなくなるのです。私たちは、例えどんな人であろうが、救いから離れた生活をしている人であろうが、「すべての人」に対し福音を伝え、また仕えるのです。福音の恵みを自分一人の占有物にしてはいけません。教会の中でのみ分かち合い、喜ぶものではありません。すべての隣人と共に福音の恵みを受け、味わうことを主は願っておられるのです。

2013年3月25日月曜日

神の愛に応えて

申命記6章4~6節

 4 聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。
 5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
 6 私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。

同7章6~11節

 6 あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。
 7 主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。
 8 しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。
 9 あなたは知っているのだ。あなたの神、主だけが神であり、誠実な神である。主を愛し、主の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られるが、
 10 主を憎む者には、これに報いて、主はたちどころに彼らを滅ぼされる。主を憎む者には猶予はされない。たちどころに報いられる。
 11 私が、きょう、あなたに命じる命令――おきてと定め――を守り行なわなければならない。



 出エジプトを果たしたイスラエルの民でしたが、約束の地カナン入国を前に、彼らは過渡的な状況にあったと言うことができます。それは①第一世代から、第二世代への世代交代、②荒野における遊牧生活から、カナンでの定住・農耕生活への転換といったことです。特に、これから入ろうとするカナンは豊穣の神バアルや穀物の神ダゴンなどといった異教の神々の霊的影響下にある土地でもありました。バアル礼拝においては宗教的売春が行われ、さらに人間をいけにえにささげる風習もありました。このような霊的環境において、新しい世代の人々が唯一の神との正しい関係を守っていくためには、すでに与えられた律法を改めて語り、教える必要がありました。それを、あたかも説教を語るようにして示したのが本書(申命記)です。神はモーセを通して、「聞きなさい(シェマー)イスラエル」「主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と語ります。これは、ただ単に神に対して無条件に服従しなさい、従順しなさいという意味ではありません。彼らが神を愛する理由は、まず神が彼らを愛され、選ばれたからこそだということです。 「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。」イスラエルの民は決して模範的な民族とは言えませんでした。せっかくの出エジプトを果たした後も、神に逆らい、不平や不満は消えることはありませんでした。しかし、神は永遠なる愛、契約の愛をもって、彼らを愛されたのです。その愛なる神ご自身の御言葉を刻み付けなさいというのです。他の神々に心を寄せてはならない。惑わされてはならない。あなたを真に愛しておられる神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。これこそが自らを守る道なのだと主は語られます。


2013年3月23日土曜日

2013イースター礼拝のご案内



どなたでもお越しください。
心よりお待ちしています。
祝福し歓迎します!!


2013年3月12日火曜日

ただひたむきに


民数記14章27~38節
 27 「いつまでこの悪い会衆は、わたしにつぶやいているのか。わたしはイスラエル人が、わたしにつぶやいているつぶやきを、もう聞いている。
 28 あなたは彼らに言え。これは主の御告げである。わたしは生きている。わたしは必ずあなたがたに、わたしの耳に告げたそのとおりをしよう。
 29 この荒野であなたがたは死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ。
 30 ただエフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、あなたがたを住まわせるとわたしが誓った地に、だれも決してはいることはできない。
 31 さらわれてしまうと、あなたがたが言ったあなたがたの子どもたちを、わたしは導き入れよう。彼らはあなたがたが拒んだ地を知るようになる。
 32 しかし、あなたがたは死体となってこの荒野に倒れなければならない。
 33 あなたがたの子どもたちは、この荒野で四十年の間羊を飼う者となり、あなたがたが死体となってこの荒野で倒れてしまうまで、あなたがたの背信の罪を負わなければならない。
 34 あなたがたが、かの地を探った日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間あなたがたは自分の咎を負わなければならない。こうしてわたしへの反抗が何かを思い知ろう。
 35 主であるわたしが言う。一つになってわたしに逆らったこの悪い会衆のすべてに対して、わたしは必ず次のことを行なう。この荒野で彼らはひとり残らず死ななければならない。
 36 モーセがかの地を探らせるために遣わした者で、帰って来て、その地について悪く言いふらし、全会衆をモーセにつぶやかせた者たちも。」
 37 こうして、その地をひどく悪く言いふらした者たちは、主の前に、疫病で死んだ。
 38 しかし、かの地を探りに行った者のうち、ヌンの子ヨシュアと、エフネの子カレブは生き残った。

ピリピ3章12~14節

 12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
 13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
 14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

 せっかく信仰をもったのに(賜物として与えられたのに)、離れてしまう人が沢山います。なぜでしょうか。救いの確信がなかったのでしょうか。信仰が足りなかったのでしょうか。意志が弱かったのでしょうか。家族の反対があったのでしょうか。それとも教会に問題があったのでしょうか。指導者がいい加減だったのでしょうか。
 イスラエルの民はどうだったでしょう。明確な救いの体験(出エジプト)があり、よき指導者(モーセ)がおり、生活の規範となる御言葉(律法)も与えられ、日々の食物(マナ)もあり、何より礼拝(いけにえ)を通して神様の愛と赦しと偉大さに触れることができました。しかし、彼らの中から「不平」「不満」「つぶやき」などが消えることはありませんでした。食物に対し、水に対し、指導者に対し、約束の地に対し、荒野での生活に対し、そして神に対し彼らはつぶやき、不平を述べました。結果として、第1回人口調査(民1章)で登録された人々は、38年後に行われた第2回人口調査において誰一人(エフネの子カレブとヌンの子ヨシュアを除いて)約束の地に入ることはできませんでした(民26:64)。これは一体なにが原因だったのでしょうか。環境のせいでしょうか。それほどまでに彼らの生活環境は悲惨なものだったのでしょうか。そうではありません。これは「自己中心」の問題なのです。自己中心は本当に恐ろしい罪です。自分中心が深刻なれば、自分の居場所を天国から地獄にすら変えることができてしまうのです。環境が変われば感謝できる。環境が変われば幸せになれると言いますがそうではありません。大切なのは聖霊によって変わることのないお方をいつも身に着けることです。「ただこの一事に、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走る」ことです。今の歩みが未来を決定するのです。「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」(Ⅱテモテ4:7-8)とパウロの告白が私たち一人一人の告白となりますようにイエス様のみ名で願います。

2013年3月7日木曜日

礼拝は聖なるものです


レビ記16章6~10節
 6 アロンは自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。
 7 二頭のやぎを取り、それを主の前、会見の天幕の入口の所に立たせる。
 8 アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。
 9 アロンは、主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。
 10 アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。

19章2節
 「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。

 モーセ5書(創世記~申命記)の第3番目に位置しているレビ記は、出エジプトを果たしたイスラエルの民がどのように神様と向き合うのか、どのように神様に栄光をお捧するのかの具体的な方法を記した書です。「礼拝規定の書」とも言えるでしょう。
 神様は19章2節の御言葉にあるように「聖」であられるお方です。全き「聖」です。ですから、礼拝を捧げる者たちもまた「聖」でなければならない、「聖なる者」として礼拝の場に出なければならないと言うのです。しかし、残念ながら私たちは「聖」なる者からはかけ離れた「罪人」です。神様の前にそのまま出ていくならば、たちどころに滅ぼされてしまうような、滅ぼされても仕方がない者たちです。では一体誰が主の前に進み出ることが出来るでしょうか。そこで神様は民に対して「いけにえ」を用意されました。罪のためのいけにえ、ここでは雄牛と2頭のやぎが用いられます。ここで「アザゼル」という行為が出てきます。これは何かというと、神様が定められた罪の赦しを得るための方法です。祭司は、まず1頭目のやぎの頭に手を置き、民の罪を告白します。これは罪をやぎに移すことを意味します。そしてそのやぎを屠ります。もう一頭も同様にし、今度は屠らずに、生きたまま野に放ちます。このアザゼルは、まさに私たちの罪のためにいけにえとなられたイエス・キリストを表わしているのです。私たちの罪をすべて背負い、十字架上で血を流され、死なれたイエス様です。罪のない方が、罪を負われ、神から切り離され、陰府に下られたイエス様です。このイエス様によって、イエス様の血潮によって私たちは「聖」なる者とされるのです。いや、イエス様の血潮以外に私たちを罪を洗い流し、聖めることが出来るものは何一つありません。ですから礼拝は、イエス・キリストが中心でなければいけません。イエス様のみ名が崇められ、イエス様の栄光が表われるものでなければいけません。人間がスポットライトを浴びる礼拝、十字架の前に心跪かない礼拝、これは礼拝ではありません。伝統的なスタイルの礼拝であれ、或いは様々なプログラムがあり、見た目は派手で、楽しい礼拝であれ、しかし、もし主の前に罪の悔い改めが何もないとするならば、果たしてそれは礼拝とは言えるのでしょうか。「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」礼拝とは何なのか、レビ記を通してもう一度省みる必要があるのではないでしょうか。

2013年2月26日火曜日

わたしは主である


出エジプト記6章2~8節
 2 神はモーセに告げて仰せられた。「わたしは主である。
 3 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現われたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった。
 4 またわたしは、カナンの地、すなわち彼らがとどまった在住の地を彼らに与えるという契約を彼らに立てた。
 5 今わたしは、エジプトが奴隷としているイスラエル人の嘆きを聞いて、わたしの契約を思い起こした。
 6 それゆえ、イスラエル人に言え。わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。
 7 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。
 8 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地に、あなたがたを連れて行き、それをあなたがたの所有として与える。わたしは主である。」

イエス・キリストに対する呼び方として、ある人は「ナザレのイエス」と呼び、またある人は「私の主イエス」と呼びます。どちらも同じお方に対する呼び方ですが、しかしその響きは大きく異なります。それは、私たちがどのようにイエスさまを見ているか、どのように出会ったかによるということです。出エジプトの物語は、ヨセフの時代から400年以上経ち、苦役の中にあったイスラエルの民が、神が立てた指導者モーセに率いられてエジプトから救い出される物語です。これまでいくつもこの物語が題材とされた映画が発表されていますので、(チャールトン・ヘストン主演「十戒」やドリームワークスのアニメ「プリンス・オブ・エジプト」など)聖書の中でも特に多くの人に知られている物語かも知れません。しかし、この出エジプト記は、壮大な歴史ドラマや、モーセの英雄伝、イスラエル民族の民族大移動の物語として味わうことがその目的ではありません。「わたしは主である。」というお方を知り、「私の主」という告白に導かれることが真の目的です。私たちにとってエジプトとは、まさに私たちを究極的に苦しめ、悩ませる「罪」の問題を意味しています。罪から解放されない限り、私たちは永遠に「罪の奴隷」なのです。イスラエルを苦しめた、エジプトは「水」によって滅ぼされましたが、私たちも、「水」の洗い、即ちイエスの十字架を信じ、古い自分に死に、新しく生まれ変わるバプテスマにより、罪が洗いきよめられ、解放されるのです。あなたにとって、神様はどのようなお方でしょうか。「イスラエル民族の神」でしょうか、それとも「私の神、私の主」でしょうか。

2013年2月17日日曜日

永遠の契約

創世記3章21節
 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。

創世記15章6節
 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

 旧新約聖書を通し貫かれている概念の一つに「契約」というものがあります。これは、神様と人間との間に結ばれた契約の事です。聖書の緒論とも言える創世記には、この契約の場面が多く登場しますが、その最初の契約(第一の契約、わざの契約)は、「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。(2:16-17)という契約でした。この契約を守るならば、エデンの園(パラダイス)において永遠の祝福を味わう事が出来たはずでした。しかし、人類はこの契約を破り、永遠の祝福を逃し、罪による呪い(エデンからの追放、労働の苦しみ、産みの苦しみ、病、死)がもたらされてしまいました。悔やんでも悔やみきれない、霊的に極めて深刻な状態となってしまった今の世において、アダムの子孫である私たちは日々苦しみを経験しています。しかし、神は決して人間を見捨てられませんでした。「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」(3:21)の御言葉にあるように、神はどこまでも憐れみ深く、いのちを犠牲にしてまで、人の罪を覆い、贖ってくださるのです。しかし、それには絶対に必要な条件があります。それは「信仰」です。神様を自らの救い主、主として受け入れ、信じることです。アダムとの第一の契約が破られた後、神は人類と第2の契約、すなわち恵みの契約を結ばれます。その代表がアブラハムです。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(12:1-3)「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」(15:1)「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」(15:5)アブラハムは神様が表わしてくださったこの契約を心に留め、「信じた」のです。「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(15:6)この恵みの契約は第一義的には神とアブラハムとの間に結ばれた契約ですが、しかし、私たち異邦の民もこの契約に預かることができるのです。イエス・キリストを信じ、受け入れるなら、私たちのこの契約の民に加えられるのです。「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」(ガラテヤ3:26-29)どうぞ、イエス・キリストを信じてください。永遠の神との契約により、永遠のいのちの祝福を手に入れてください。エデン(パラダイス)を手に入れてください。罪の呪いから解放されて下さい。

2013年1月30日水曜日

みな赦します

ルカの福音書11章4節
 4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。

「私たちの罪をお赦しください。」と祈りなさいとイエスさまは私たちが教えてくださいましたが、これは人間が根本的に誰でも罪人であるということを表わしています。人間が罪人である限り、人は互いに傷つけあったり、憎みあったり、嫉妬しあったり、争ったりするということです。ですから、私たちには「赦し、赦される」ということが必要になるわけですが、聖書はこの「赦し」について2通りの赦しが必要だと言うのです。即ち、「神様に赦していただく」ということと、「人を赦す」ということです。このいずれかだけではいけないのです。神様に赦していただき、人を赦すのです。神様に赦してもらっていながら、人を赦せないというのは偽善者です。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」(Ⅰヨハネ4:20)、「光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。」(同2:9)。ですから例えどんなに自分にとって負い目がある人であっても、その人を「みな赦します」と祈るべきです。「赦したいです」「いつか赦せるように」といった消極的な祈りではなく、「赦します!」と宣言するのです。しかし、この祈りを本当に自らのものにするためには、まず何より神の赦しを受けなければなりません。私たちのすべての罪の呪いを引き受けて十字架にかかってくださったイエス・キリストを信じること、こんな罪人の私でも赦されたのだという自覚が芽生えてこそ、人を心から赦せるようになるのです。人を赦す力の源は、イエスさまから来るのだということです。あなたは、今、赦せない人はいますか。赦したいとは思うけど、感情がそうならない人はいますか。その人は平和の君、イエス・キリストを主としてください。イエス様の霊である、聖霊に満たされて下さい。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」(エペソ2:14)

2013年1月22日火曜日

必要な糧を与えて下さる神

ルカの福音書11章3節
 3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。

 皆さんは毎日の食事に困っておられるでしょうか。今日食べる物がない、明日食べる物がない、だから毎日食べられるように「私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。」と祈るようにイエスさまはこの祈りを教えたのだ。イエス様の時代の人々は貧しい人が多かったから、きっとこの祈りは貧しいのための祈りなのだ。だから、毎日の食事に特に困っていない私にはあまり関係がない祈りだ。
 いかがでしょうか。本当にこの祈りは日々の食物に困っていない人々には関係がない祈りなのでしょうか。ではなぜイエスさまは、「主の祈り」の中にこの祈りを入れたのでしょうか。御言葉にもう一度注目してみてください。
 「私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。」
 私たちの日ごとの糧。この「私たち」という言葉をどこまで拡げることができるかによってこの祈りが変わってくるのです。自分は毎日食べることが出来ていても、周りの人々はどうでしょうか。或いは世界の人々はどうでしょうか。世界には約70億人の人口がいますが、その内飢餓で苦しんでいる人は10億人近くにもなります。実に7人に一人が飢えている状況です。では食料が足りないのかといえばそうではありません。穀物だけでも世界の倍近くの人口を養うだけの量があり、他の食物を足せば有り余るほどの食物があるのです。問題は分配の問題です。世界人口の5分の1の工業先進国の人々が世界中の穀物の5分の2を消費し、逆に世界人口の5分の4の開発途上国の人々が世界の穀物の5分の3の量で暮らしているのです。それだけ工業先進国から出る食物の廃棄量が多いと言う事です。特に日本はその点が深刻です。日本は食品の70%(5800万トン)を輸入に頼っていながら、その内の3分の1(1940万トン)を廃棄しているそうです。この廃棄量は世界一の消費大国アメリカを上回る量であり、実に3000万人分(途上国の5000万人分)の年間食糧に匹敵する量だそうです。
 この現実に目を留めるなら、この祈りはもっと私たちにとって切実な祈りとならないでしょうか。一昨年の震災で私たちの国も、特に被災された方々にとっては、日々の糧、食物のみならず、着るものも、住む家も、そして仕事といった、生活に必要な様々なものが失われてしまいました。自然が私たちにとって脅威となると、私たちの生活は非常に厳しくなります。都市であればあるほど実にもろいのです。電気や水道などのライフラインがすべてストップしたら、私たちの生活はどうなるでしょう。物流システムが停止したらどうなるでしょう。私たちは神様の守りと、また供給がないと、絶対に生きられないのです。いや、神様によって初めて私たちは存在し、この世に生きているのです。「私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。」この祈りを唱えるごとに、私たちに日々の糧を与えて下さっておられる神様への感謝が出てくるのです。また世界の兄弟たちへの祈りと実際的な執り成しへと目が向けられるのです。そして、世界の平和と安定のために心が注がれるのです。

2013年1月8日火曜日

大宮教会聖会

さいたま市北区のキリスト教会

次週1月13日の主日礼拝は、新年聖会です。
講師は佐藤義則先生(東京聖書学院舎監、日本ホーリネス教団青梅恵みキリスト教会牧師)です。
どなたでもご参加できますのでどうぞお越しください。