2013年2月26日火曜日

わたしは主である


出エジプト記6章2~8節
 2 神はモーセに告げて仰せられた。「わたしは主である。
 3 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現われたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった。
 4 またわたしは、カナンの地、すなわち彼らがとどまった在住の地を彼らに与えるという契約を彼らに立てた。
 5 今わたしは、エジプトが奴隷としているイスラエル人の嘆きを聞いて、わたしの契約を思い起こした。
 6 それゆえ、イスラエル人に言え。わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。
 7 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。
 8 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地に、あなたがたを連れて行き、それをあなたがたの所有として与える。わたしは主である。」

イエス・キリストに対する呼び方として、ある人は「ナザレのイエス」と呼び、またある人は「私の主イエス」と呼びます。どちらも同じお方に対する呼び方ですが、しかしその響きは大きく異なります。それは、私たちがどのようにイエスさまを見ているか、どのように出会ったかによるということです。出エジプトの物語は、ヨセフの時代から400年以上経ち、苦役の中にあったイスラエルの民が、神が立てた指導者モーセに率いられてエジプトから救い出される物語です。これまでいくつもこの物語が題材とされた映画が発表されていますので、(チャールトン・ヘストン主演「十戒」やドリームワークスのアニメ「プリンス・オブ・エジプト」など)聖書の中でも特に多くの人に知られている物語かも知れません。しかし、この出エジプト記は、壮大な歴史ドラマや、モーセの英雄伝、イスラエル民族の民族大移動の物語として味わうことがその目的ではありません。「わたしは主である。」というお方を知り、「私の主」という告白に導かれることが真の目的です。私たちにとってエジプトとは、まさに私たちを究極的に苦しめ、悩ませる「罪」の問題を意味しています。罪から解放されない限り、私たちは永遠に「罪の奴隷」なのです。イスラエルを苦しめた、エジプトは「水」によって滅ぼされましたが、私たちも、「水」の洗い、即ちイエスの十字架を信じ、古い自分に死に、新しく生まれ変わるバプテスマにより、罪が洗いきよめられ、解放されるのです。あなたにとって、神様はどのようなお方でしょうか。「イスラエル民族の神」でしょうか、それとも「私の神、私の主」でしょうか。

2013年2月17日日曜日

永遠の契約

創世記3章21節
 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。

創世記15章6節
 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

 旧新約聖書を通し貫かれている概念の一つに「契約」というものがあります。これは、神様と人間との間に結ばれた契約の事です。聖書の緒論とも言える創世記には、この契約の場面が多く登場しますが、その最初の契約(第一の契約、わざの契約)は、「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。(2:16-17)という契約でした。この契約を守るならば、エデンの園(パラダイス)において永遠の祝福を味わう事が出来たはずでした。しかし、人類はこの契約を破り、永遠の祝福を逃し、罪による呪い(エデンからの追放、労働の苦しみ、産みの苦しみ、病、死)がもたらされてしまいました。悔やんでも悔やみきれない、霊的に極めて深刻な状態となってしまった今の世において、アダムの子孫である私たちは日々苦しみを経験しています。しかし、神は決して人間を見捨てられませんでした。「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」(3:21)の御言葉にあるように、神はどこまでも憐れみ深く、いのちを犠牲にしてまで、人の罪を覆い、贖ってくださるのです。しかし、それには絶対に必要な条件があります。それは「信仰」です。神様を自らの救い主、主として受け入れ、信じることです。アダムとの第一の契約が破られた後、神は人類と第2の契約、すなわち恵みの契約を結ばれます。その代表がアブラハムです。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(12:1-3)「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」(15:1)「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」(15:5)アブラハムは神様が表わしてくださったこの契約を心に留め、「信じた」のです。「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(15:6)この恵みの契約は第一義的には神とアブラハムとの間に結ばれた契約ですが、しかし、私たち異邦の民もこの契約に預かることができるのです。イエス・キリストを信じ、受け入れるなら、私たちのこの契約の民に加えられるのです。「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」(ガラテヤ3:26-29)どうぞ、イエス・キリストを信じてください。永遠の神との契約により、永遠のいのちの祝福を手に入れてください。エデン(パラダイス)を手に入れてください。罪の呪いから解放されて下さい。