2012年1月24日火曜日

ひざまずく執り成し

エペソ人への手紙3章14節~21
14 こういうわけで、私はひざをかがめて、
15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。

執り成しの祈りとは、罪人である人間のために神に取り持つことを言いますが(イザヤ53:12など)、祈られる対象の人が何より神を見上げ、神を深く体験し、神を心から礼拝するように取り持つことを願う祈りとも言えるでしょう。ですから、もちろん祈られる人自身の祝福を願う祈りであるには変わりないのですが、単に個人的な願望が叶うことや、目的が達成できることが最終目的なのではなく、あくまでも豊かに施してくださるお方である神様ご自身が褒め称えられること、神様に栄光が帰せられることを願う祈りなのです。ゆえに祈りが聞かれたとしても、そのことが個人の栄誉になってはいけませんし、祈りに応えて下さった神様に栄光を現わさないとするならば、それは執り成しの祈りの本質から反れた、実に愚かな姿だと言えるでしょう。
パウロは、エペソの教会の人々のためにひざをかがめて、ひれ伏し、熱心に執り成します。その内容は、彼らが「内なる人が強められ、キリストの愛を心の底から味わい、その愛に満たされること」でした。そうです。罪人である私たちが真に悟らなければならないことはこういうことなのです。私たちは執り成す時に、社会的な成功や、事業の祝福、病の癒しだったり、健康を願うことなどを祈ります。もちろんこれらを祈ることは悪いことではありませんし、そう祈るべきです。しかし、それらが執り成しの最終的な目的であってはなりません。あくまでも手段なのです。執り成しの真の目的は、祈りが答えられることを通して、神が今も生きて働いていてくださることを知り、さらに信仰が強められ、またこんな罪人である自分をも省みてくださり、憐れんで下さって、祈りを聞いてくださったのだと畏れひれ伏すことなのです。ご自身の命を捨ててまでも、私のために心から愛していて下さる主の前にへりくだり、全ての栄光を帰すことなのです。ですから、執り成しの祈りが生活の中にある人は、主の前にひざまずく人になるのです。

2012年1月21日土曜日

すべてが新しく

ローマ人への手紙11章33節~12章2節
11:33 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。
34 なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。
35 また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。
36 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

あなたは「新しい」、「新鮮」、「ニュー」などの言葉に敏感な方でしょうか。聖書には、主と共にある者は、常に「新しさ」があるとあります。新しい歌(賛美)が溢れ、魂が新しくされ、朝毎に新しい恵みがあるというのです。外面的には人間は衰えていきます。年配の方で確かに若々しい人がいますが、それは若々しいだけであり、実際に若い訳ではありません。モノやシステムも登場した時は最新のものであっても、しかしその瞬間から時間の流れに従って古くなるのです。しかし、聖書が言う「新しさ」は、時代や環境、文化、そして時間に左右されない新しさであり、新しく創造的に創られるものです。それは、神様ご自身が、アルファであり、オメガである、初めであり、終わりである、つまり永遠のお方だからです。「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るから」常に新しい御業を期待することができるのです。ですから、私たち信仰者は、自分自身の狭い考えや常識、伝統や経験、凝り固まった固定観念で豊かな信仰の世界を妨げてはいけません。2000年前、使徒の時代に働かれた聖霊の神は、今も同じ御業を成すことができるのです。三千数百年以上前に出エジプトを導かれた神は、今も変わらず人々を導くことがおできになるのです。神にとっては千年も一日のようなのだと聖書は言うのです。ですから大切なのは、自分に神様(みことば)を合わせるのではなく、神様ご自身の権能に、御言葉の能力に、自分を合わせるのです。主の御言葉で、聖霊の力で、「わたしを聖め、主のものとして、主のみこころのままに私を新しくつくり変えてください」と祈るのです。新しい年に、主の新しい恵みを期待しましょう。

2012年1月13日金曜日

聖めるのはイエスの血潮


第一テサロニケ5章23~24節
23平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
24 あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。

1999年には世界の終わりが来るとずいぶん騒がれたものですが、2012年にも世の終わりが来ると唱えている者がいるそうです。マヤ文明において用いられた歴がそれを指し示しているのだそうです。しかし、このマヤ歴と終末論の背景にはニューエイジ(日本ではスピリチュアルという言葉の方が馴染みがあるでしょう)の影響があるのです。ニューエイジは1960年代のアメリカのカウンターカルチャー(狭義にはヒッピームーブメントやロックなど)をその直接の起源とし、既存の文明や科学、政治体制などに批判を加え、それらから解放された、自由な生き方を模索しようとする精神運動だと言えます。そして、その特徴の一つに、「自己聖化」というのがあるそうです。「すべてのものは聖なるものである。」という前提があるので、神はもはや必要なく、人間の秘めたる力や可能性の追求によって、解放された自己の実現を目指すものです。
しかし、これは明らかに聖書の教えに反することです。確かに「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。」(Ⅰテサロニケ4:3)が、それを成し遂げるのは、人間の努力ではなく「平和の神ご自身」だと聖書は語ります。ニューエイジは、一見すると宗教的で、自由な発想に思えますが、しかし、聖書が禁じている不品行を肯定し、人間の罪の性質に対しては目をつぶります。その行きつく先は自由や解放ではなく、却って人間を罪の奴隷状態に貶めてしまうのです。人類を罪から救い、聖め、真の自由を与えるのは、神の御子なるイエス・キリストの十字架の血潮のみです。

2012年1月6日金曜日

新年聖会のご案内

さいたま市北区のキリスト教会 基督兄弟団大宮教会


東京教区新年聖会のご案内です


日時 2012年1月9日(月)
    聖会Ⅰ 10:30-12:00
    聖会Ⅱ 13:30-15:00


会場 基督兄弟団成増教会
      東京都練馬区旭町3-32-18


講師 Ⅰ 小野寺従道師(横浜教会)
   Ⅱ 藤波喜久子師(小田原教会)





祈りつつ、是非お出かけ下さい。

2012年の標語

新年明けましておめでとうございます。
今年も主の救いの喜びと栄光が輝く一年となりますようにお祈りします。

今年の標語が決まりました。
教会標語は
「三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。」(イザヤ書37:30)

教団標語は
「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。」(Ⅰテサロニケ5:23)

です。

テーマは「聖め、そして自立」です。