エペソ人への手紙3章14節~21
14 こういうわけで、私はひざをかがめて、
15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。
執り成しの祈りとは、罪人である人間のために神に取り持つことを言いますが(イザヤ53:12など)、祈られる対象の人が何より神を見上げ、神を深く体験し、神を心から礼拝するように取り持つことを願う祈りとも言えるでしょう。ですから、もちろん祈られる人自身の祝福を願う祈りであるには変わりないのですが、単に個人的な願望が叶うことや、目的が達成できることが最終目的なのではなく、あくまでも豊かに施してくださるお方である神様ご自身が褒め称えられること、神様に栄光が帰せられることを願う祈りなのです。ゆえに祈りが聞かれたとしても、そのことが個人の栄誉になってはいけませんし、祈りに応えて下さった神様に栄光を現わさないとするならば、それは執り成しの祈りの本質から反れた、実に愚かな姿だと言えるでしょう。
パウロは、エペソの教会の人々のためにひざをかがめて、ひれ伏し、熱心に執り成します。その内容は、彼らが「内なる人が強められ、キリストの愛を心の底から味わい、その愛に満たされること」でした。そうです。罪人である私たちが真に悟らなければならないことはこういうことなのです。私たちは執り成す時に、社会的な成功や、事業の祝福、病の癒しだったり、健康を願うことなどを祈ります。もちろんこれらを祈ることは悪いことではありませんし、そう祈るべきです。しかし、それらが執り成しの最終的な目的であってはなりません。あくまでも手段なのです。執り成しの真の目的は、祈りが答えられることを通して、神が今も生きて働いていてくださることを知り、さらに信仰が強められ、またこんな罪人である自分をも省みてくださり、憐れんで下さって、祈りを聞いてくださったのだと畏れひれ伏すことなのです。ご自身の命を捨ててまでも、私のために心から愛していて下さる主の前にへりくだり、全ての栄光を帰すことなのです。ですから、執り成しの祈りが生活の中にある人は、主の前にひざまずく人になるのです。
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