2012年12月26日水曜日

元旦礼拝のご案内

さいたま市北区のキリスト教会


日付 2013年1月1日(日)
時間 11:00-12:00(通常より30分遅く始まります。お間違えの無いようにお願いします)
 ※どなたでもご参加いただけます。どうぞお越しください。

2012年12月18日火曜日

クリスマス集会のご案内

さいたま市北区のキリスト教会

クリスマス集会のご案内です。
どなたでもお越しください。
大歓迎いたします!!
さらに今年はこどものクリスマスも致します!
楽しいゲームや賛美、プレゼントもあります。
お友だちをさそってきてね。^^


癒しの十字架


マラキ書4章1~6節
 1 見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行なう者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。――万軍の主は仰せられる。――
 2 しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。
 3 あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行なう日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。――万軍の主は仰せられる。――
 4 あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を記憶せよ。それは、ホレブで、イスラエル全体のために、わたしが彼に命じたおきてと定めである。
 5 見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
 6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」

 今日は国政選挙が行われます。この国の在り方を問う大切な日です。景気対策、財政再建、原発、TPP、外交、領土問題、憲法改正、社会保障、年金、教育などなど・・・挙げればキリがないほど多くの争点があります。このように考えると本当に日本は問題だらけのような国がしてきます。しかも、このような問題は今に始まったことだけではなく、ここ何年もずっと争点である問題ですし、おそらく次の選挙にも沢山の問題が取り上げられるでしょう。しかし、このような問題は何も今の日本だけのことではありません。イスラエルにおいて預言者マラキが活躍した時代もやはり様々な社会的な問題があったようです。貧困が溢れ、弱者が虐げられ(格差・不平等社会、社会保障の問題)、祭司が不正を犯し(指導者の不正、リーダーシップの欠如)、雑婚の問題(宗教多元主義)など現代社会に通じる問題、いや、根本的な所では人類は何も進歩していないのではないかとさえ思えてきます。それは、「罪」の問題が絡んでいるからです。人類に罪がある限り、どんな主義主張や哲学、成熟した社会システムが整っていても、絶対にこの世からは問題はなくなりません。罪の問題に解決をしない限り、それは不可能な話です。全き平和な世界が訪れる時まで、即ち主の再臨の時までは不可能なのです。しかし、主の再臨の日、「その日」はこのような日でもあります。「見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行なう者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。――万軍の主は仰せられる。」(1節)主の裁きの前では、すべての不正、悪が暴かれ、一掃され、根も枝も残らないほど焼き尽くされます。
 では、私たち罪人は全く希望がないのでしょうか。聖書は「主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」(5節)と言います。「彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」(6節)この預言は、新約におけるバプテスマのヨハネの言葉から解釈する必要があります。それは主イエス様ご自身がバプテスマのヨハネを新約時代のエリヤとしているからです。「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。」(マタイ11:12ー14)「『エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています。』そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた。」(同17:11-13)そして、この新約のエリヤである、バプテスマのヨハネが指し示している方こそが、クリスマスの主人公である、イエス・キリストです。彼は、確かにもう一度来られ、この世を裁かれます。焼き尽くす炎によってすべての悪は滅び去ります。しかし、大切なのはイエス様の目的は、滅ぼすことが目的ではなく、救う事であり、我々とこの世を癒すことです。「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。」(2節)イエス様にこそ癒しがあります。癒しというのは十字架の贖いの業によってなされるのです。罪の問題を無視して癒しを捉えてはいけません。ヤコブは十字架と癒しの密接な関係をこのように語ります。「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。」(ヤコブ5:15-20)
 クリスマスにこそ私たちは十字架に目を留めるべきです。

2012年12月5日水曜日

誇りの冠

第一テサロニケ1章4~7節、2章19~20節
 4 神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。
 5 なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。
 6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。
 7 こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。

 19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。
 20 あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。

 今日(12月2日)からアドヴェントが始まります。アドヴェントは教会歴の聖アンデレ主日(11月30日)に最も近い主日から、クリスマスの前日までがアドヴェントの期間となります。アドヴェントには2つの意味があり、一つは「あらわれ」、もう一つは「来臨」という意味です。その主人公はもちろんイエス・キリストです。2000年前に神の独り子イエス・キリストが人の姿をとってこの世に「あらわれ」て下さり、十字架の死と復活により、死と罪の呪いを打ち破られ天に昇られました。そして、そのイエス様は再びこの地に、救いの完成と裁きのために、「来臨」されるのです。ですから、私たちにとって、このアドヴェントは単なるクリスマス集会のための準備期間などではなく、やがて来られるイエス様に目を向け、「主イエスよ、来てください」(黙示録20:20)と祈りつつ、いよいよ神の国の完成のために福音宣教に励むときなのです。
 テサロニケの手紙の中心的テーマは「再臨」についてですが、しかし、イエス様の「来臨」「再臨」について語る時、様々な偽りや惑わしの霊が働き、人びとを混乱させるのもまた事実です。「もうすぐイエス様が来るから、仕事をしてもしょうがない。」と言って怠惰な生活をし、他人に迷惑をかけていた人たちも当時は大勢いたようです。これは当時のみならず、現代でもそのような人たちはいますよね。そして、そのような人たちに対しパウロは警告をします。「兄弟たちよ。主イエス・キリストの御名によって命じます。締まりのない歩み方をして私たちから受けた言い伝えに従わないでいる、すべての兄弟たちから離れていなさい。どのように私たちを見ならうべきかは、あなたがた自身が知っているのです。あなたがたのところで、私たちは締まりのないことはしなかったし、人のパンをただで食べることもしませんでした。かえって、あなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。それは、私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに模範を示すためでした。」(Ⅱテサロニケ3:6-9)むしろ、そのような人たちに惑わされることなく、勤勉に、模範的に歩みなさいと語ります。これは修行や鍛錬によって到達する境地では決してありません。努力目標でも、律法でもありません。力と聖霊と強い確信によって伝えられた「福音」によって、あなたがたが「召された」ことのゆえに可能なものです。そして、その「召し」に留まり、惑わされることなく、勤勉に、また忍耐を持って主の再臨を待つ者に対して、主はこのように語られるのです。「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。」(19-20)
 終わりの時代には苦難があります。敬虔であればあるほどそれから逃れることはできません。戦いがあります。しかし、その中でも勝利するのが真のキリスト者です。「召し」を自覚し、聖霊に満たされ、福音の力を信じることです。最後に待っているのは栄光の冠、誇りの冠です。