2012年7月30日月曜日

コリアンフェスティバル2012のご案内

アンニョンハセヨ!!
今年もやってきました。コリアンフェスティバル。
8月4日(土)18:00から20:00です。
韓国料理に、ゴスペルダンス、演劇など盛りだくさんです。
お友だちをお誘いの上どなたでもお越しください。
お金は一切かかりません。
お待ちしています!



2012年7月23日月曜日

神の国がここに

マルコ4章1節~9節
 4:1 イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。
 4:2 イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。
 4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
 4:4 蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
 4:5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
 4:6 しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
 4:7 また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。
 4:8 また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」
 4:9 そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」

福音書に見られるイエス様が語られたメッセージの中心、それは「神の国」だと言っても過言ではありません。何よりも、主イエス様は、「時が満ち、神の国は近くなった」(マルコ1:15)という宣言をもって公生涯を開始し、御自身の派遣が神の国を宣べ伝えることにあると語ってます。さらに、イエス様の弟子たちの仕事も神の国にかかわるものであり、同じ主題を宣べ伝えました。
神の国は、「『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:21)と主は語っておられますが、しかし、神の国は単に心の在り方、観念を語っているのではありません。イエス様が語る神の国は、きわめて具体的、実存的なものなのです。人生の全領域、物事の全領域、万物の秩序に至るまで、現実世界の中に突入してくるものであり、そしてそれは必ず大いなる祝福をもたらすものです。しかし、その神の国の祝福が自らのものになるかならないかは、私たちの信仰にかかっているのです。根が浅かったり、世のことのみに関心が良き、いばらが伸び放題であるなら実を結ぶことができません。良い地に落ちた時に30倍、60倍、100倍の祝福があるのです。だからこそ主は語られるのです。「聞く耳のある者は聞きなさい。」と。イエス様の十字架による贖いにより、私たちはだれでも神の国の国民になる資格があるのです。

2012年7月11日水曜日

愛と励ましの便り

エペソ人への手紙6章21節から24節

  21 あなたがたにも私の様子や、私が何をしているかなどを知っていただくために、主にあって愛する兄弟であり、忠実な奉仕者であるテキコが、一部始終を知らせるでしょう。
  22 テキコをあなたがたのもとに遣わしたのは、ほかでもなく、あなたがたが私たちの様子を知り、また彼によって心に励ましを受けるためです。
  23 どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。
  24 私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。

テキコは、パウロの手紙をエペソの教会の人たちに届けた人物です。彼のした働きは小さなものでした。しかし、彼のような忠実な奉仕があって教会は建てられるのです。忠実な、謙遜な奉仕を通して神の国は建設されていくのです。「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」(Ⅱテモテ2:2)
いや、それどころか彼のような忠実な奉仕が無ければ、神の国は決して作られないのです。主は、律法学者、パリサイ人たちを「わざわい」「偽善者」と呼び、「・・・はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。」(マタイ23:23口語訳)と指摘されました。実に主が求めておられるのは、地味であっても、小さな事にも忠実な奉仕者です。「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」(ルカ16:10)
そして、彼のような存在を通して、教会の交わりはさらに豊かなものとされます。「平安と信仰に伴う愛」が溢れるのです。なぜならそれは最も謙遜で、十字架の死にまでも忠実に従った「主イエス・キリストから」来るものだからです。

2012年7月3日火曜日

福音は勝利の宣言

エペソ人への手紙6章19~20節
 19 また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。
 20 私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。

福音と言う言葉は、もともと戦勝報告を意味する言葉です。キリスト者にとって霊的戦いの結末は必ず勝利で終わるのです。ではキリスト者は何に対して勝利を得ているのでしょうか。
一つ目は罪の負債に対する勝利です。コロサイ書2章13~14節に「あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」とあります。悪魔サタンは私たちのどうにもならない罪の問題を通して私たちの存在を責め、混乱させ、動揺させてきますが、主は十字架で勝利を取ってくださいました。
二つ目は孤独に対する勝利です。アダムの堕落によって彼らはエデンの園を追放されて以来、人類にとって孤独は大きなトラウマとなってしまいました。しかし、聖書は語ります。ヘブル13章5節「主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』」、ローマ8章31節「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」同8章33節「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」
三つ目は人類にとって決して解決不可能な問題、死に対する勝利です。Ⅰコリント15章53節~57節「朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
キリスト者はこの勝利を世に向かって大胆に宣言することが出来るのです。真のキリスト者に敗北の二文字は無いのです。