2012年7月23日月曜日

神の国がここに

マルコ4章1節~9節
 4:1 イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。
 4:2 イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。
 4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
 4:4 蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
 4:5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
 4:6 しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
 4:7 また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。
 4:8 また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」
 4:9 そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」

福音書に見られるイエス様が語られたメッセージの中心、それは「神の国」だと言っても過言ではありません。何よりも、主イエス様は、「時が満ち、神の国は近くなった」(マルコ1:15)という宣言をもって公生涯を開始し、御自身の派遣が神の国を宣べ伝えることにあると語ってます。さらに、イエス様の弟子たちの仕事も神の国にかかわるものであり、同じ主題を宣べ伝えました。
神の国は、「『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:21)と主は語っておられますが、しかし、神の国は単に心の在り方、観念を語っているのではありません。イエス様が語る神の国は、きわめて具体的、実存的なものなのです。人生の全領域、物事の全領域、万物の秩序に至るまで、現実世界の中に突入してくるものであり、そしてそれは必ず大いなる祝福をもたらすものです。しかし、その神の国の祝福が自らのものになるかならないかは、私たちの信仰にかかっているのです。根が浅かったり、世のことのみに関心が良き、いばらが伸び放題であるなら実を結ぶことができません。良い地に落ちた時に30倍、60倍、100倍の祝福があるのです。だからこそ主は語られるのです。「聞く耳のある者は聞きなさい。」と。イエス様の十字架による贖いにより、私たちはだれでも神の国の国民になる資格があるのです。

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