2012年6月26日火曜日

祈りは勝利の旗

エペソ人への手紙6章18節
 18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

祈りは神様によって与えられた霊的な武器です。出エジプト記17章に、イスラエルの民が出エジプトの荒野生活の道中、レフィディムにおいてアマレク軍と戦った記事があります。モーセは、アロンとフルとともに丘の頂に立ち、モーセが手を上げているとイスラエルが優勢になり、手を下ろすとアマレクが優勢になりました。疲れてきたモーセを石の上に座らせ、両側からモーセの勝利するまで手を支え続けたのが、アロンとフルでした。そしてその場所はアドナイ・ニシ「主はわが御旗」と名づけられました。
「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。」聖霊様はまさにアロンとフルのように、私たちの祈りを支えてくださいます。どんなときにも祈ることができるように、神の御心に叶った祈りが出来るように、忍耐を持って待ち、委ねることが出来るように、聖霊様が助けてくださいます。「目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」(ローマ8:24-27)
御霊に満たされた祈りこそ、霊的な戦いに勝利するためには不可欠なものです。

2012年6月21日木曜日

きよい手を上げて

父の日礼拝

テモテへの手紙第一2章8節
 8 ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。

「手を上げる」という言葉には、手を上に上げるという意味のほかに、降参する、また暴力を振るうという意味もあります。最近の社会問題の一つにDV(ドメスティックバイオレンス)の問題を挙げることができるでしょう。先日TVのある番組でDVの特集を組んでいました。その一つが妻に対し暴力を振るった夫とカウンセラーとのやり取りでした。その中でカウンセラーが夫に「DVをして得たものと失ったものはなんですか」と質問したところ、「得たものは・・・一時的な征服感、相手を支配できたことに対する快感で、失ったものは、家族です」と答えていたのが印象的でした。

聖書が語る「手を上げる」姿とは、もちろん暴力ではありません。きよい手をあげるということです。きよい手とはどんな手でしょうか。怒ったり、ののしったりして、相手を裁く手ではありません。助けを求めている人の手を払いのける冷酷な手でも、不正や不義を行う汚れた手でもありません。相手を赦し、助け、いたわる愛の手です。まさにイエス・キリストが示して下さった手です。私たちの罪と咎を赦すために釘打たれた愛の手です。復活した事実を信じようとしなかった弟子のトマスに対し現れた主は「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」とご自身の傷ついた手を示されました。その手はまさに愛と赦しに富んだきよい手でした。その手に触れられたトマスは「私の主。私の神。」とイエス様の前に心ひれ伏し、礼拝しました。
きよい手を上げて祈る男性こそ聖書が語る男の姿、父の姿です。

2012年6月10日日曜日

救いの確信はありますか

エペソ人への手紙6章17節
17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

この世の暗闇の支配者である悪魔サタンは、キリストの弟子である信仰者を容赦なく揺さぶってきます。不信仰と疑いの種を植え付け、霊的に堕落をさせようと攻撃してきます。特に自分の思ったようにことが進まない時に、神に対する不信を与えたり、神の教会に対する不満や批判を増長させてきます。そのような悪魔サタンの攻撃に信仰者は無力なのでしょうか。何もできずに飲み込まれていくのでしょうか。
ここで聖書は救いのかぶとをかぶり、聖霊が与える神の御言葉という剣を受け取りなさいと語ります。言うまでもなく、かぶとは頭にかぶります。頭は体の中で最も大事な部分です。頭がやられては、どんなに体が頑丈でも動かすことはもうできません。そうです、私たち信仰者が最もやられてはいけない部分、頑丈で無ければならない部分は、「救い」という事実です。イエス・キリストの十字架の贖いにより、罪赦され、きよめられ、さらにイエス様の復活を信じる信仰によって、私たちに永遠の祝福のいのちが保証されているという、この事実にしっかり立つということです。そして、この事実を裏付け、確信させるものこそが、御霊によって与えられた御言葉です。この自らの内にある「救いの事実の確信」と「御言葉」がしっかりと揺るぎないものとして留まっているならば、たとい火のような試練があったとしても、信仰を揺さぶる事態が生じたとしても、悪魔の巧みな惑わしを受けたとしても、勝利することができるのです。あなたは救いの確信がありますか?救いの御言葉を握ってますか?

2012年6月6日水曜日

PRAY TOGETHER

ローマ人への手紙15章30節

30 兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。

キリスト者として、愛の具体的な行為のうちの一つがとりなしの祈りと言えるかもしれません。まず、相手に対して関心がなければ、力を尽くして祈ることはできません。さらに、自分自身が犠牲を払う必要もあります。祈りのための時間を割くことであったり、また、自分のやりたいことや自分のための祈りを後ろ回しにすることも考えられるでしょう。ですから、力を尽くして執り成すためには、何よりもここでパウロが語っているように愛なるお方「イエス・キリスト」によって、また「御霊の愛」によって満たされなければなりません。御霊を受けなければなりません。御霊を受けていないキリスト者は、不信仰や不従順な態度、また、神と人への愛も冷え、祈りも弱く形式的、口では立派なことを言ってはいても、律法的に、あるいは破壊的に人を批判したりします。しかし、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:5)とあるように、聖霊を受けたキリスト者の祈りは、神の愛に支配されているので、もはや無力ではなく、熱心に、また涙をもって心から神に執り成します。そして、ここで大切なことは、それが単独ではなく、「共同」の祈りであることです。「私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。」とあるように、「私とともに」力を尽くして祈ることです。このような御霊に満たされたキリスト者の共同の祈りがささげられる群れこそが、美しく麗しい教会の姿です。