2012年6月21日木曜日

きよい手を上げて

父の日礼拝

テモテへの手紙第一2章8節
 8 ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。

「手を上げる」という言葉には、手を上に上げるという意味のほかに、降参する、また暴力を振るうという意味もあります。最近の社会問題の一つにDV(ドメスティックバイオレンス)の問題を挙げることができるでしょう。先日TVのある番組でDVの特集を組んでいました。その一つが妻に対し暴力を振るった夫とカウンセラーとのやり取りでした。その中でカウンセラーが夫に「DVをして得たものと失ったものはなんですか」と質問したところ、「得たものは・・・一時的な征服感、相手を支配できたことに対する快感で、失ったものは、家族です」と答えていたのが印象的でした。

聖書が語る「手を上げる」姿とは、もちろん暴力ではありません。きよい手をあげるということです。きよい手とはどんな手でしょうか。怒ったり、ののしったりして、相手を裁く手ではありません。助けを求めている人の手を払いのける冷酷な手でも、不正や不義を行う汚れた手でもありません。相手を赦し、助け、いたわる愛の手です。まさにイエス・キリストが示して下さった手です。私たちの罪と咎を赦すために釘打たれた愛の手です。復活した事実を信じようとしなかった弟子のトマスに対し現れた主は「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」とご自身の傷ついた手を示されました。その手はまさに愛と赦しに富んだきよい手でした。その手に触れられたトマスは「私の主。私の神。」とイエス様の前に心ひれ伏し、礼拝しました。
きよい手を上げて祈る男性こそ聖書が語る男の姿、父の姿です。

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