2012年2月23日木曜日

JESUS IS THE ANSWER.

エペソ人への手紙4章17~32節
 17 そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。
 18 彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。
 19 道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています。
 20 しかし、あなたがたはキリストのことを、このようには学びませんでした。
 21 ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。
 22 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、
 23 またあなたがたが心の霊において新しくされ、
 24 真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。
 25 ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。
 26 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。
 27 悪魔に機会を与えないようにしなさい。
 28 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。
 29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。
 30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
 31 無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。
 32 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。

私たちの人生をむなしくさせるもの、それは、「彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れ」たことにすべて起因します。最初の人類であるアダムとエバが生活していたエデンの園の中央には、「善悪の知識の木」と「いのちの木」があったと創世記には記されています。しかし、神の命令を破り、善悪の知識の実を取って食べてしまったが故に、エデンの園から追放され、いのちの木をも失うことになってしまいました。そして、結果として、我々人類には「好色、不潔、盗み、悪口、無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしり」などどいった罪の実が結ばれることになってしまいました。このような罪の実を放置し、聖霊を悲しませ、自己中心に生きることは、むなしさしか生みません。どんなに自分を喜ばせても、快楽を味わっても、社会的な成功を収めても、罪の問題が解決されないなら、私たちはむなしい存在なのです。しかし、私たちが「ほんとうにキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならば」私たちの古き性質は離れ去り、新しくされるのです。「まさしく真理はイエスにあるから」です。他には救いはありません。私たちをご自身の命と引き換えに赦して下さる主イエス様を求めましょう。私たちの人生の答えは、イエス・キリストにあります。イエス様と共にあるなら、もう私たちの内にむなしさは残りません。

2012年2月15日水曜日

誠実さが一致を保ちます

エペソ4章14~16節
 14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
 15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
 16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

人間関係を築く上において最も大切なことは、信頼関係ではないでしょうか。いかに能力があっても、魅力的でも、その人に対する信頼が揺らぐならば、それ以上深く関係を築くことは困難です。建物や機械が壊れても、修理すればまた元のように使えますが、人間関係に不信が入り込むなら、修復はかなり難しくなります。パウロの時代も現代も、教会を混乱させ、惑わそうとするサタンの力が働いています。悪巧みや、人を欺く悪賢い策略などの教えの風が吹いています。ですからその様な中で、私たちに求められている霊性は、誠実さです。主と人の前において、私たちは誠実である必要があります。自分が認められたいが故に自分を良く見せる必要はありません。聖書が語る誠実さとは何でしょう。それは、愛と真理です。相手に見返りを求める愛ではなく、イエス様が示された自己犠牲の精神、即ちアガペーの愛と、私たちの信仰の唯一の規範(カノン)であり、誤りのないもの=真理の御言葉を土台として生きるということです。そのようにして私たちは『キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。』

2012年2月10日金曜日

色鮮やかな教会

エペソ4章7~13節
 7 しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。
 8 そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」
 9 ――この「上られた。」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。
 10 この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。――
 11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
 12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
 13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

教会が「一致」することを聖書は語りますが、決して「一色」になることを語ってはいません。なぜなら、キリストご自身が、賜物のはかりに従って、一人一人に個性的な、豊かな賜物を与えておられるからです。『救いの恵みは全員に同じだが、個々の信徒への天賦の才は十人十色』(レンスキ)との言葉の通りです。では、各自に豊かな賜物が与えられた、委ねられた理由はなんでしょう。それは、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するため」です。キリストを頭とした教会が一致した信仰により、成熟し成長することで、教会自体がキリストご自身を表わすため、教会という存在を通してキリストを証しするためです。人々が教会を見て「ここにイエス様がいらっしゃる」「イエス様は救い主で今も生きて働いておられる」と悟ることができるように、主は教会に豊かな賜物を与えて下さったというのです。ですから、賜物は自分のためではなく、主の栄光のために捧げられるものです。もしそうしなければ、却って、一致が破壊されてしまい、分裂が生じてしまうのです。主を喜び、主のために仕えることこそが、自分自身の喜びとなるように願います。

2012年2月2日木曜日

平和の絆でひとつ

エペソ人への手紙4章1~6節
 1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。
 2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、
 3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
 4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
 5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
 6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。

「ひとつになろう」「一致しよう」「一丸となろう」などというスローガンがあります。会社でも、地域でも、スポーツなどでもよく使われるスローガンです。では、どうしたら私たちは一致することができるでしょうか。共通の理念や目標、方向性を示すことでしょうか。また、危機的な状況が人々の心を一致させることもあるでしょう。実際に、大震災を経験した昨年は、随分と「一致」だとか「きずな」とか言うことが叫ばれました。「今こそ日本が一つとなって、この国難を乗り切ろう」と。しかし、現実はどうでしょうか。言葉では簡単ですが、私たちが一致するのは決して易しいことではないように思われます。自分に利益をもたらすものならば一致できても、自分が納得できなかったり、不利なことのように思われるならば、自分が例え損をしても大儀のためならば一致しようとは、なかなか思えないものです。特にポストモダンの時代に生きる私たちにはそうかもしれません。
では聖書は「一致」についてどう語っているでしょうか。聖書は「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」と語ります。平和の絆で結ばれることで一致できるというのです。では平和の絆とは、どのような絆でしょうか。第一に召しを自覚することです。罪人である自分が、「平和の君」なる主イエス様の一方的な愛と憐みによって、罪赦され、神の子とされ、永遠のいのちが与えられ、そして神の栄光のために弟子として選ばれたのだという自覚です。この自覚に立つなら、パウロが語るように誰も自分を誇ることはないはずです。召して下さった主を誇り、主の御言葉を伝え、主のために生きるというヴィジョンが生まれます。第二は、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合う」ことです。最も謙遜で、柔和で、寛容で、愛に富んだイエス様の霊性に倣うときに一致が生まれるというのです。どんなに自分に自信があって、正しくて、また指導的な立場にいたとしても、いつも自己中心的に、自分の考えを絶対化するならば決して一致が生み出されることはありません。これは特にリーダーに対して求められる霊性ではないでしょうか。そして、第三にこれは「聖霊」によって成し遂げられるということです。聖霊の助けなしには一致は一時的に成し遂げれれてもすぐに途切れてしまったり、混乱と争いの王である悪魔サタンの妨害に打ち勝つことはできません。聖霊によって導かれることを教会が求めないならば、一部の指導者の権威や支配を絶対化させ、聖徒の思考を統制し、偽りの一致が生み出されてしまうかも知れません。即ち「カルト化」の危険があるということです。教会は聖霊によって牧会されなければなりません。
以上これらのことを心に留め、みことばに立ち、従うならば、「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神」の力によって教会は整えられていきます。あの初代教会のような、愛と慈善と謙遜な奉仕にあふれた、美しい共同体になるのです。