2011年5月31日火曜日

6月2日ですが

6月2日(木)の午前の祈り会ですが、夜の部と合同で行います。お間違えの無いように。

6月5日の礼拝

6月5日の礼拝は聖餐礼拝です。主任牧師が御用をします。

真理を証しするもの

第一ヨハネ5章6~13節

6 このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。
7 あかしするものが三つあります。
8 御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。
9 もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。
10 神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。
11 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。
13 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。

真のキリスト者とは、心に御子イエスを持っている者です。イエスの十字架によって罪赦されたことを大胆に証しする者です。水(バプテスマ)と血(十字架)により、新しくされ、聖められた者です。自分を誇るのではなく、自分を証しするのでもなく、何よりもイエス・キリストを自らの主として、イエス・キリストを一番の誇りとして歩む者です。どんなに洗練された礼拝を捧げても、美しい賛美を捧げても、どんなに立派なことを宣べても、自らを罪人であると認め、且つ、十字架により罪赦され、永遠のいのちに預かったのだという確信が無いならば、それはむなしい信仰です。救いの業とはすべて、自分の業ではなく、ただ御霊なる神の恵みなのです。なぜなら御霊が真理(6)だからです。『私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。』(Ⅱテモテ2:13)

2011年5月26日木曜日

世に打ち勝つ信仰

ヨハネの手紙第一 5章1節~5節
1 イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。
2 私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。
3 神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。
4 なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
5 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

神は、私たちを無限の愛で愛してくださいます。その神が私たちに下さる命令(みことば)は、まさに愛の内にある命令です。私たちから自由を奪い、服従させ、苦しみの支配させるためのものではありません。むしろ、神の命令は、私たちを自由にし、罪から解放させ、喜びと希望に溢れた生き方を与えるためのものです。そして、世の力に打ち勝つ力を与えるものです。
もし、この命令(みことば)に従わないならば、どうなるでしょう。世の力に飲み込まれ、罪の力によって、滅びの道に至ってしまいます。
主イエスの命令は、主を信じる者たちにとっては、重荷とはなりません。負いやすく、魂に安らぎをもたらすのです。

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。』

2011年5月19日木曜日

恐れを取り除く主の愛

ヨハネの手紙第一 4章13節~21節
13 神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。
14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。
15 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。
16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。
17 このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。
18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。
19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
20 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
21 神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。

 人間が神から離れた(罪を犯した)結果もたらされた感情の一つが「恐れ」です。この世は、私たちを恐れさせるもので満ちています。自然災害の脅威は恐れをもたらします。また、自分が持っているものを失うことは、それ以上の恐れかも知れません。健康、仕事、財産や地位、愛する者が突然私たちから失われてしまうとするならば、ぞっとします。
 しかし、聖書には決して失われないものがあると言います。それは「永遠」です。神様ご自身は永遠のお方であり、その神様が私たちに注いでくださる愛もまた「永遠」のものです。「永遠」を手に入れた者は、例えすべてを失ったとしても、決して絶望せず、希望を持つことができます。
 韓国の女子大生だったイ・チソンさんは、ある日、交通事故に遭ってしまい、全身に大やけどを負い、その美しい顔を顔を失ってしましました。人々は容赦なしに彼女を好奇の目で見つめ、心無い言葉で彼女を苦しめました。しかし、彼女は彼女は言います。「私は幸せです」「以前の姿に戻りたくはありません」と。なぜでしょう。彼女は語ります。 
「確かに私はこの苦難により、外から見えるものは失われましたが、代わりに目に見えないまことの宝物を与えられたのです。元に戻ってしまうと、神様から頂いたこの宝も失ってしまうから戻りたくないのです。」
 あなたにも神様からの永遠の宝物である、愛が注がれています。永遠のいのちが約束されています。どうか、いつか消えゆく有限のものから、決して失われない永遠のものに目を向けてください。永遠の神の愛が、失うことへの恐れからあなたを解放させるのです。

2011年5月11日水曜日

愛による絆(2011.5.8礼拝メッセージ)

ヨハネの手紙第一4章7節~12節
 7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
 8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
 9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
 10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
 11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
 12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

いま「絆」という言葉が、頻繁に使われています。「絆」により私たちが一つとされて、震災により傷ついた人々が立ち上がることを切に祈ります。
聖書は、人と人とを結びつける絆を「愛」で結びなさいと言います。『愛は結びの帯として完全なものです。』(コロサイ3章14節)
ここでいう「愛」とは、アガペーの愛(神の愛)を意味します。相手が誰であれ、どんな状態であれ、例えこちらが犠牲を払うことになったとしても、命すら惜しまず、犠牲的な心で愛することがアガペーです。絶対的な愛であり、決して変わらない永遠のものです。
それに対し私たちはが一般的に考える愛は、相対的です。自分に不利益なことが生じたり、報いが返ってこなかったり、自分の期待を裏切るような結果になる場合、愛が冷めてしまったり、どこかへ消えてしまいます。
この世を造られた神と人類との間には、本来強い絆がありました。平安と平和がいつもありました。何の悩みも苦しみもありませんでした。しかし、人類が神を離れ罪を犯したが故に、その絆を人類が断ち切ってしまいました。それ以降、この世には争いや悲しみ、苦しみが絶えないのです。
しかし、神の御子イエス・キリストがアガペーの愛で私たちを愛してくださいました。罪により滅びなければならない私たちの身代わりに十字架で死んでくださることによって、神と人類との間にあった絆を回復させてくださいました。
今こそ、この絆を取り戻すときです。イエス・キリストが示された愛に生きるときです。日本の国にアガペーの愛による絆が回復しますように、イエス・キリストの御名で祈ります。