2012年3月27日火曜日

みこころは何であるか

エペソ人への手紙5章15節~21節
 15 そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、
 16 機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。
 17 ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。
 18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。
 19 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。
 20 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。
 21 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。

「自分の罪過と罪の中に死んでいた」(エペソ2:1)私たちが救われ、きよめられ、完成へと至るのはもちろん主である神様ご自身です。自分の力ではどうにもならない原罪を持つ私たちが、根本的に、まったく新しくされるのは、神の業、聖霊の業です。しかし、だからといって自らの救いの達成のために何もせず、ただ世に流されていても仕方がないことだとは聖書は教えていません。無力であることを認めながらも、古き自分に失望しながらも、なおも主の恵みに期待し、霊的成長を遂げることを決して怠ってはいけません。ここでは、泥酔による放蕩についての戒めが言われていますが、放蕩は、別な言い方では「破滅的」、ある英語の聖書では「浪費」と訳されている言葉です。日本はお酒に寛容な?国ですが、実に多くの人が毎年泥酔によって、多くのものを失っています。さらにはいのちを落としている者もいるのです。私たちを真に解放し、自由にし、失われない喜びをもたらすものは、アルコールなどではなく、御霊に満たされることです。「自分の心に正直に、素直に生きる」などと言うことがスマートな言葉として良く言われますが、自分が罪人であることを認めるならば、それは必ずしも、自由な生き方ではないことが分かります。なぜなら、私たちは「悪い時代」に生きており、何が正しくて、何が間違っているか、何が正義かが非常に曖昧な世から多分に影響を受けているからです。自分で良かれと思っていることが、聖書から見るならば必ずしも正しくないということが多いにあるのです。真の聖徒は、自分の心、思いを最優先させるのではなく、主のみこころは何であるかをまず問うのです。自分の思考や願望を持ってきて、「これが御心に違いない」などと錯覚してはいけません。日々御言葉を黙想し、賢い歩みを選び取りましょう。

2012年3月25日日曜日

2012イースター礼拝のご案内


どなたでもご自由にお越しください。心から歓迎します。

基督兄弟団春季全国大会

日程 2012年3月29日(木)~4月1日(日)
会場 ふれあいの里石岡 ひまわりの館
茨城県石岡市大砂10527-6
℡ 0299-35-1126

宿泊は羽鳥の聖書学院となります
聖会の祝福のためお祈りください。

2012年3月24日土曜日

光の子として

エペソ人への手紙5章3~14節
3 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。
4 また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。
5 あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。――こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。
6 むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。
7 ですから、彼らの仲間になってはいけません。
8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。
9 ――光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。――
10 そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。
11 実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。
12 なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。
13 けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。
14 明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」

キリストの血潮によって罪赦され、清められた者は、聖徒と呼ばれます。ですから、もはや以前の古い肉の生き方に留まることは聖徒としてふさわしくありません。主に従い、忠実な働き人として用いられたイザヤやモーセ、パウロなども、主の召しを受けたとき、まず聖別され、自らに死にました。私たちも十字架にイエス様とともにつけられ、不品行や我欲に支配された生き方に死ぬ必要があります。 使徒パウロが「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)と言うように、私たちが主の弟子として主と共に歩み、共に生きるためには十字架によって我欲に死に、また復活のいのちによって生きることが大切です。なぜならイエス様の弟子としてイエス様に倣う生き方とは、例え自らを犠牲にすることがあっても、隣人に仕え、愛する生き方ですが、聖書が否定する不品行とは、相手を利用し、犠牲にしてまでも、自分の欲を満たす行為だからです。「こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができない」のです。聖徒があるべき姿は、この世に対し、善意と正義と真実の光を照らすことです。

2012年3月10日土曜日

3・11リバイバル礼拝

さいたま市北区のキリスト教会 基督兄弟団大宮教会


「3・11リバイバル礼拝」
3月11日の主日は、東日本大震災からちょうど丸一年となる日です。基督兄弟団大宮教会では、この日を覚え、主なる神様に被災地と日本の復興を悔い改めと共に祈る記念礼拝を持ちます。共に、聖霊に導かれつつ、リバイバルを求め祈りましょう。

2012年3月2日金曜日

赦されているから

エペソ4章32節から5章2節
 4:32 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったよう  に、互いに赦し合いなさい。
 5:1 ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。
 5:2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。

人は愛されることで、人を愛することができます。愛されることによって愛が何であるかを知るのです。では、赦しもまた同様に考えることはできないでしょうか。確かに、私たちは対人関係においてすべての人と良好な関係を持つことは困難です。中には気に入らない人もいるでしょうし、時に人から耐え難いほどの苦痛を受けたり、深い傷を負わされることがあります。傷が深刻であればあるほど、或いは、傷を与えた相手が否を認め謝罪してこない場合などは、ますます赦すことは困難になるでしょう。しかし、聖書は「ただ赦しなさい」とは語りません。まず、あなたがた自身がキリストにおいて神に赦されているのだと言うのです。神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさいと言うのです。キリストが罪の結果、本来裁かれるべき私たちの罪の身代わりにその身に裁きを受けらました。それは私たちに和解をもたらす為、赦しを宣言するためです。旧約の時代、罪の赦しは、羊や牛に罪を移し、いけにえとしてほふり、その血を流すことによって実現されましたが、まさにイエス様ご自身が、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物となって殺され、血を流して下さったのです。私たちは、この偽りのない、本当の愛と赦しを受けているからこそ、真に愛し合い、そして赦しあうことができるのです。