エペソ人への手紙5章15節~21節
15 そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、
16 機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。
17 ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。
18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。
19 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。
20 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。
21 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。
「自分の罪過と罪の中に死んでいた」(エペソ2:1)私たちが救われ、きよめられ、完成へと至るのはもちろん主である神様ご自身です。自分の力ではどうにもならない原罪を持つ私たちが、根本的に、まったく新しくされるのは、神の業、聖霊の業です。しかし、だからといって自らの救いの達成のために何もせず、ただ世に流されていても仕方がないことだとは聖書は教えていません。無力であることを認めながらも、古き自分に失望しながらも、なおも主の恵みに期待し、霊的成長を遂げることを決して怠ってはいけません。ここでは、泥酔による放蕩についての戒めが言われていますが、放蕩は、別な言い方では「破滅的」、ある英語の聖書では「浪費」と訳されている言葉です。日本はお酒に寛容な?国ですが、実に多くの人が毎年泥酔によって、多くのものを失っています。さらにはいのちを落としている者もいるのです。私たちを真に解放し、自由にし、失われない喜びをもたらすものは、アルコールなどではなく、御霊に満たされることです。「自分の心に正直に、素直に生きる」などと言うことがスマートな言葉として良く言われますが、自分が罪人であることを認めるならば、それは必ずしも、自由な生き方ではないことが分かります。なぜなら、私たちは「悪い時代」に生きており、何が正しくて、何が間違っているか、何が正義かが非常に曖昧な世から多分に影響を受けているからです。自分で良かれと思っていることが、聖書から見るならば必ずしも正しくないということが多いにあるのです。真の聖徒は、自分の心、思いを最優先させるのではなく、主のみこころは何であるかをまず問うのです。自分の思考や願望を持ってきて、「これが御心に違いない」などと錯覚してはいけません。日々御言葉を黙想し、賢い歩みを選び取りましょう。
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