第一テサロニケ1章4~7節、2章19~20節
4 神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。
5 なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。
6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。
7 こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。
19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。
20 あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。
今日(12月2日)からアドヴェントが始まります。アドヴェントは教会歴の聖アンデレ主日(11月30日)に最も近い主日から、クリスマスの前日までがアドヴェントの期間となります。アドヴェントには2つの意味があり、一つは「あらわれ」、もう一つは「来臨」という意味です。その主人公はもちろんイエス・キリストです。2000年前に神の独り子イエス・キリストが人の姿をとってこの世に「あらわれ」て下さり、十字架の死と復活により、死と罪の呪いを打ち破られ天に昇られました。そして、そのイエス様は再びこの地に、救いの完成と裁きのために、「来臨」されるのです。ですから、私たちにとって、このアドヴェントは単なるクリスマス集会のための準備期間などではなく、やがて来られるイエス様に目を向け、「主イエスよ、来てください」(黙示録20:20)と祈りつつ、いよいよ神の国の完成のために福音宣教に励むときなのです。
テサロニケの手紙の中心的テーマは「再臨」についてですが、しかし、イエス様の「来臨」「再臨」について語る時、様々な偽りや惑わしの霊が働き、人びとを混乱させるのもまた事実です。「もうすぐイエス様が来るから、仕事をしてもしょうがない。」と言って怠惰な生活をし、他人に迷惑をかけていた人たちも当時は大勢いたようです。これは当時のみならず、現代でもそのような人たちはいますよね。そして、そのような人たちに対しパウロは警告をします。「兄弟たちよ。主イエス・キリストの御名によって命じます。締まりのない歩み方をして私たちから受けた言い伝えに従わないでいる、すべての兄弟たちから離れていなさい。どのように私たちを見ならうべきかは、あなたがた自身が知っているのです。あなたがたのところで、私たちは締まりのないことはしなかったし、人のパンをただで食べることもしませんでした。かえって、あなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。それは、私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに模範を示すためでした。」(Ⅱテサロニケ3:6-9)むしろ、そのような人たちに惑わされることなく、勤勉に、模範的に歩みなさいと語ります。これは修行や鍛錬によって到達する境地では決してありません。努力目標でも、律法でもありません。力と聖霊と強い確信によって伝えられた「福音」によって、あなたがたが「召された」ことのゆえに可能なものです。そして、その「召し」に留まり、惑わされることなく、勤勉に、また忍耐を持って主の再臨を待つ者に対して、主はこのように語られるのです。「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。」(19-20)
終わりの時代には苦難があります。敬虔であればあるほどそれから逃れることはできません。戦いがあります。しかし、その中でも勝利するのが真のキリスト者です。「召し」を自覚し、聖霊に満たされ、福音の力を信じることです。最後に待っているのは栄光の冠、誇りの冠です。
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