2013年7月18日木曜日

主の前に

Ⅰ列王記11章1~13節
  1 ソロモン王は、パロの娘のほかに多くの外国の女、すなわちモアブ人の女、アモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヘテ人の女を愛した。
  2 この女たちは、主がかつてイスラエル人に、「あなたがたは彼らの中にはいって行ってはならない。彼らをもあなたがたの中に入れてはならない。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる。」と言われたその国々の者であった。それなのに、ソロモンは彼女たちを愛して、離れなかった。
  3 彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。
  4 ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。
  5 ソロモンはシドン人の神アシュタロテと、アモン人のあの忌むべきミルコムに従った。
  6 こうしてソロモンは、主の目の前に悪を行ない、父ダビデのようには、主に従い通さなかった。
  7 当時、ソロモンは、モアブの、忌むべきケモシュと、アモン人の、忌むべきモレクのために、エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた。
  8 彼は外国人の自分のすべての妻のためにも、同じようなことをしたので、彼女たちは自分たちの神々に香をたき、いけにえをささげた。
  9 主はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、主から移り変わったからである。主は二度も彼に現われ、
  10 このことについて、ほかの神々に従って行ってはならないと命じておられたのに、彼は主の命令を守らなかったからである。
  11 それゆえ、主はソロモンに仰せられた。「あなたがこのようにふるまい、わたしが命じたわたしの契約とおきてとを守らなかったので、わたしは王国をあなたから必ず引き裂いて、あなたの家来に与える。
  12 しかし、あなたの父ダビデに免じて、あなたの存命中は、そうしないが、あなたの子の手からそれを引き裂こう。
  13 ただし、王国全部を引き裂くのではなく、わたしのしもべダビデと、わたしが選んだエルサレムのために、一つの部族だけをあなたの子に与えよう。」

 ソロモン王はすべてを持っている王でした。地位、名誉、財産、権力、名声、そして知恵に富み、主を畏れ、荘厳な主の神殿を築き上げることができたのもソロモンの治世においてでした。しかし、これらの祝福は彼自身によってもたらされたものではありません。父ダビデの信仰と悔い改め、また、彼自身の主の御心に叶う祈りの結果によってもたらされたということができます。
 彼は父ダビデが罪を犯し、その裁きが下った後に誕生した子ではありましたが、主はダビデの悔い改めを良しとされ、預言者ナタンが「その名をエディデヤ(主に愛される者)と名づけさせた。」(Ⅱサムエル12:25)とあるように、主は彼を愛し、大いに祝福されます。また、 「わが神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中におります。しかも、彼らはあまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど、おびただしい民です。善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」(Ⅰ列3:7-9)と主の御心に叶う祈りを捧げたことによって、神は彼に「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者はひとりもないであろう。」(Ⅰ列3:11-13)と語られました。
 しかし、ソロモンはその治世の後半、主から離れてしまいました。すべてを与えて下さった主に対する畏敬と崇拝がありませんでした。それどころか、忌むべき異教の神々を受け入れ、従い、主の目の前に悪を行ってしまいました。結果、国家は分断され、王国はやがて崩壊へと進んでいくことになります。なぜ、こうなってしまったのでしょうか。キーワードは「主の前に」「主の目の前に」と言う言葉です。これが列王記をひも解くキーワードです。すべてを手に入れた彼はいつのまにか、主の前にあって、謙遜な心と、心からの礼拝を失ってしまいました。日々の中で主を意識することがなくなると、人はその欲望に従い目に見える満足を求めます。ソロモンはこの世のすべての満足を求め、また体験しましたが、その心は空虚でした。彼の心を埋めることはできませんでした。しかし、そんな中にあっても、彼はダビデのように悔い改め、主を求めることはしませんでした。若き頃のように、謙遜な心で主に祈ることを選びませんでした。「主の前にいること」「主の目に叶う事」を彼はいつの間にか忘れてしまったのです。
 聖書は語ります。「兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。」(Ⅰコリント7:24)

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