2013年3月12日火曜日

ただひたむきに


民数記14章27~38節
 27 「いつまでこの悪い会衆は、わたしにつぶやいているのか。わたしはイスラエル人が、わたしにつぶやいているつぶやきを、もう聞いている。
 28 あなたは彼らに言え。これは主の御告げである。わたしは生きている。わたしは必ずあなたがたに、わたしの耳に告げたそのとおりをしよう。
 29 この荒野であなたがたは死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ。
 30 ただエフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、あなたがたを住まわせるとわたしが誓った地に、だれも決してはいることはできない。
 31 さらわれてしまうと、あなたがたが言ったあなたがたの子どもたちを、わたしは導き入れよう。彼らはあなたがたが拒んだ地を知るようになる。
 32 しかし、あなたがたは死体となってこの荒野に倒れなければならない。
 33 あなたがたの子どもたちは、この荒野で四十年の間羊を飼う者となり、あなたがたが死体となってこの荒野で倒れてしまうまで、あなたがたの背信の罪を負わなければならない。
 34 あなたがたが、かの地を探った日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間あなたがたは自分の咎を負わなければならない。こうしてわたしへの反抗が何かを思い知ろう。
 35 主であるわたしが言う。一つになってわたしに逆らったこの悪い会衆のすべてに対して、わたしは必ず次のことを行なう。この荒野で彼らはひとり残らず死ななければならない。
 36 モーセがかの地を探らせるために遣わした者で、帰って来て、その地について悪く言いふらし、全会衆をモーセにつぶやかせた者たちも。」
 37 こうして、その地をひどく悪く言いふらした者たちは、主の前に、疫病で死んだ。
 38 しかし、かの地を探りに行った者のうち、ヌンの子ヨシュアと、エフネの子カレブは生き残った。

ピリピ3章12~14節

 12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
 13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
 14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

 せっかく信仰をもったのに(賜物として与えられたのに)、離れてしまう人が沢山います。なぜでしょうか。救いの確信がなかったのでしょうか。信仰が足りなかったのでしょうか。意志が弱かったのでしょうか。家族の反対があったのでしょうか。それとも教会に問題があったのでしょうか。指導者がいい加減だったのでしょうか。
 イスラエルの民はどうだったでしょう。明確な救いの体験(出エジプト)があり、よき指導者(モーセ)がおり、生活の規範となる御言葉(律法)も与えられ、日々の食物(マナ)もあり、何より礼拝(いけにえ)を通して神様の愛と赦しと偉大さに触れることができました。しかし、彼らの中から「不平」「不満」「つぶやき」などが消えることはありませんでした。食物に対し、水に対し、指導者に対し、約束の地に対し、荒野での生活に対し、そして神に対し彼らはつぶやき、不平を述べました。結果として、第1回人口調査(民1章)で登録された人々は、38年後に行われた第2回人口調査において誰一人(エフネの子カレブとヌンの子ヨシュアを除いて)約束の地に入ることはできませんでした(民26:64)。これは一体なにが原因だったのでしょうか。環境のせいでしょうか。それほどまでに彼らの生活環境は悲惨なものだったのでしょうか。そうではありません。これは「自己中心」の問題なのです。自己中心は本当に恐ろしい罪です。自分中心が深刻なれば、自分の居場所を天国から地獄にすら変えることができてしまうのです。環境が変われば感謝できる。環境が変われば幸せになれると言いますがそうではありません。大切なのは聖霊によって変わることのないお方をいつも身に着けることです。「ただこの一事に、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走る」ことです。今の歩みが未来を決定するのです。「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」(Ⅱテモテ4:7-8)とパウロの告白が私たち一人一人の告白となりますようにイエス様のみ名で願います。

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