2013年3月7日木曜日
礼拝は聖なるものです
レビ記16章6~10節
6 アロンは自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。
7 二頭のやぎを取り、それを主の前、会見の天幕の入口の所に立たせる。
8 アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。
9 アロンは、主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。
10 アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。
19章2節
「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。
モーセ5書(創世記~申命記)の第3番目に位置しているレビ記は、出エジプトを果たしたイスラエルの民がどのように神様と向き合うのか、どのように神様に栄光をお捧するのかの具体的な方法を記した書です。「礼拝規定の書」とも言えるでしょう。
神様は19章2節の御言葉にあるように「聖」であられるお方です。全き「聖」です。ですから、礼拝を捧げる者たちもまた「聖」でなければならない、「聖なる者」として礼拝の場に出なければならないと言うのです。しかし、残念ながら私たちは「聖」なる者からはかけ離れた「罪人」です。神様の前にそのまま出ていくならば、たちどころに滅ぼされてしまうような、滅ぼされても仕方がない者たちです。では一体誰が主の前に進み出ることが出来るでしょうか。そこで神様は民に対して「いけにえ」を用意されました。罪のためのいけにえ、ここでは雄牛と2頭のやぎが用いられます。ここで「アザゼル」という行為が出てきます。これは何かというと、神様が定められた罪の赦しを得るための方法です。祭司は、まず1頭目のやぎの頭に手を置き、民の罪を告白します。これは罪をやぎに移すことを意味します。そしてそのやぎを屠ります。もう一頭も同様にし、今度は屠らずに、生きたまま野に放ちます。このアザゼルは、まさに私たちの罪のためにいけにえとなられたイエス・キリストを表わしているのです。私たちの罪をすべて背負い、十字架上で血を流され、死なれたイエス様です。罪のない方が、罪を負われ、神から切り離され、陰府に下られたイエス様です。このイエス様によって、イエス様の血潮によって私たちは「聖」なる者とされるのです。いや、イエス様の血潮以外に私たちを罪を洗い流し、聖めることが出来るものは何一つありません。ですから礼拝は、イエス・キリストが中心でなければいけません。イエス様のみ名が崇められ、イエス様の栄光が表われるものでなければいけません。人間がスポットライトを浴びる礼拝、十字架の前に心跪かない礼拝、これは礼拝ではありません。伝統的なスタイルの礼拝であれ、或いは様々なプログラムがあり、見た目は派手で、楽しい礼拝であれ、しかし、もし主の前に罪の悔い改めが何もないとするならば、果たしてそれは礼拝とは言えるのでしょうか。「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」礼拝とは何なのか、レビ記を通してもう一度省みる必要があるのではないでしょうか。
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