2013年4月22日月曜日

福音のためなら


Ⅰコリント9章19~23節

19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。
20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。
21 律法を持たない人々に対しては、――私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、――律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。
22 弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。
23 私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。

 パウロは、イエス・キリストによる救いを得てから、その人生を全て「福音宣教」のために捧げたといっても良いでしょう。パウロは、もし福音を伝えることができないのなら、それは禍であると語っています。聖書を見ればよく分かるように、パウロほど福音宣教において、神様に用いられた人物はいなかったでしょう。彼の心にはいつも救霊の情熱がありました。「何とかして一人でも多くの人を救いに導きたい」「例え幾人かであっても、救いに導きたい」
 そんな彼の福音宣教の方法には、大きく二つの側面があります。一つは、すべての人に対して福音を適用したということです。当時の一般的なユダヤ人の考えは、「救いはユダヤ人のみ」というものでした。ユダヤ人こそが、神によって選ばれた契約の民であり、救いを受けるにふさわしい民なのであって、それ以外の異邦人が、救われるなどと言うのは、まったくもって有りえないことであるということでした。しかし、彼は「異邦人の使徒」として、すべての民族に対し、この福音のメッセージを大胆に語り、救いへと導きました。二つ目は、すべての人の奴隷となった。即ち、すべての人に「仕えた」ということです。決して、上から目線で、福音を語ることはしませんでした。同国人であるユダヤ人には当然ですが、律法を持たない異邦人にも、また社会的にも、霊的にも弱い人々にも、彼は寄り添い、同じ目線で福音を語りました。私たち信仰者は、信仰生活が長くなると時として、自分を何か特別な存在に思ってしまう傾向があります。そして、この世が仕えるべき場ではなく、離れるべき対象になってしまうのです。そして、自分たちだけの居心地の良い「教会」を作り上げるのです。教会で話し合われることは、「交わり」中心になり、ますます教会が隔絶されたものになり、この世に対して何の影響力ももたらさなくなるのです。私たちは、例えどんな人であろうが、救いから離れた生活をしている人であろうが、「すべての人」に対し福音を伝え、また仕えるのです。福音の恵みを自分一人の占有物にしてはいけません。教会の中でのみ分かち合い、喜ぶものではありません。すべての隣人と共に福音の恵みを受け、味わうことを主は願っておられるのです。

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