エペソ人への手紙1章20~21節
20神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。
神の御子であり、栄光の王であるイエス・キリストはすべての名の上に置かれるべきお方です。王の王、主の主です。しかし、2000年前の地上における主イエスの生涯は、しもべの姿として仕えられました。『・・・彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。・・・』(イザヤ書53章2~3節)
ですが今や、主イエスは死を打ち破り、天に昇られ、今や栄光の姿でこの世を支配しておられます。そして、教会にイエス様の権能の力を与えて下さいました。教会にはイエス様が満ちておられ、教会はイエス様の愛によって立て上げられているのです。ここでいう教会とは、建物のことでも、組織のことでも、宗教団体のことでもありません。教会はギリシヤ語では、エクレーシヤといい、神様の恵みよって、召集された神の契約の民の集まりのことをいいます。ですから、教会の主体、教会のかしらはイエス様であり、教会はイエス様ご自身のものです。個人の占有物でもなければ、上に立つ者が自らを誇る場ではありません。栄光の王である、主だけが崇められ、褒め称えられる場であり、私たちがひざまずく場です。
0 件のコメント:
コメントを投稿