エペソ人への手紙2章1~10節
1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――
6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。
「見よ。それは非常によかった。」(創世記1:31)私たちは、神様によって創られた非常に良い傑作品であり、祝福を受けるべき存在であると聖書は語っています。価値ある存在、尊い存在だとも語っています。しかし、今日多くの人のが、自分の本当の価値に気が付いていません。それどころか、自分の価値を自らが下げてさえいるのである。我欲(物欲や、金銭欲、性欲など)に支配された人間は、一時の快楽と歓びを味わうことができるかも知れませんが、しかしそれが度を過ぎてしまうと、自らを楽しませるどころか、かえって自らを傷付けたり、人間としての価値を下げてしまうことにもなってしまいます。聖書はそれを「自分の罪過と罪との中に死んでいる」状態だと語ります。神の御怒りを受けても弁解の余地がない、仕方がないのだとも語ります。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちに対するその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいた私たち生かしてくださいました。それは、決して滅びに至らないいのち、完全ないのち、罪のないキリストのいのちをもって私たちを贖って下さったのです。私たちの徳や、功績や、善行や、修行の結果ではなく、ただ神の一方的な憐みのゆえです。例え私たちが自分のことをどのように思っていようが、そのように評価していようが、主イエスを信じ、キリストのいのちが留まるならば、私たちを神のかたちに新しく再創造してくださり、良い行いに歩むことが出来る者、本当に価値ある生き方をすることが出来る者としてくださるのです。どうぞこの完全ないのち、完全な愛を受け取ってください。
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