2012年10月11日木曜日
自分を高くする者、自分を低くする者
ルカの福音書18章9節から14節
9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
どんなに正しい人でも、評判の良い人であっても、罪人である私たちは、自分で自分を義とすることはできません。「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10) このパリサイ人は確かに本人が言うように、他人をゆすったり、不正をしたり、姦淫をしたりする人間ではないのでしょう。しかも、宗教生活においてもかなり自分に厳しい人であると言えそうです。しかし、聖書には「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ3:20)とあります。ですから、そのような意味で、彼の祈りの根本的な誤りは、「罪の意識」即ち、悔い改めが全くないのです。人と比べて、いかに自分が正しいのか、神の救いに相応しい人間なのかということを訴えているに過ぎません。これは、もはや祈りではありません。単なるうぬぼれです。
一方、取税人はどうでしょうか。パリサイ人の言葉を借りれば、彼は「人をゆすり、不正を行い、姦淫し、しかも、全く宗教的生活をしていない人間」でしょう。しかし、彼には、「罪の意識」があったのです。そのことを本当に心から悔いて、嘆いているのです。神様の前にあまりにも恥ずかしく、「・・・遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて」彼はこう祈りました。「『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」。
結論はこうです。「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」主は憐れみ深いお方です。あなたが誰であれ、遜り、自らを低くする者には、どんな人であっても救いの冠を与えて下さいます。「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(Ⅰペテロ5:5~6)
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