15 イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった。
16 しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
17 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
イエス様のもとに子どもたちが親に連れられてきました。新改訳聖書では「幼子」、新共同訳聖書では「乳飲み子」と記されています。どれくらいの数の子どもたちかは分かりませんが、イエス様の人気を考えると、子どもたちの声は相当に賑やかなものではなかったのかと推測できます。この様子を見た弟子たちは、幼子たちがイエス様の元に来たのを歓迎しませんでした。イエス様の話の邪魔になると考えたのか、うっとうしくて働きが妨げられるとでも思ったのでしょうか。「それを見てしかった」とあります。しかし、イエス様はそのような弟子たちの態度を喜ばれませんでした。並行記事のマルコの福音書10章14節には、「イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。『子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。』」と記されています。
「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」(16-17) 「子どもたち」であっても勿論彼らは罪人です。嘘もつくし、わがままも言うし、自分勝手な性質はやはりアダムの子孫であることを示しています。しかし、ここで言う神の国に相応しい「子どもたちのような者」とは、素直さ、純粋さ、正直さと言った心を持つ者と言う事です。この記事の前後には、自らを義人だと自認するパリサイ人とやはり自分の正しさを誇っている金持ちの役人の記事が描かれています。神の前においてもなお、自分には過ちはない、罪人ではない、むしろ、他人の罪を指摘し、批判する大人たちには神の国は相応しくないと言うのです。子供のように素直な心で、主の前に自らの罪を告白し、十字架による贖いの業を信じ、従う者でなければ、決してそこに入ることはできないのです。
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