2012年5月4日金曜日

幸せな上下関係

エペソ6章5節~9節
 5 奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。
 6 人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、
 7 人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。
 8 良いことを行なえば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。
 9 主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。

従順の教えの最後は、奴隷と主人との関係です。奴隷と言っても、この当時の奴隷は決して人格を無視されたモノのような存在ではなく、社会の中で保護され、家族の一員としてみなされるケースさえもありました。ですから、ここでの主人と奴隷はいわば雇用者と被雇用者の関係、また上司と部下の関係などと置き換えて考えてみれば良いでしょう。しかし、やはりここでも大切なのは、主人であれ、奴隷であれ、それぞれが主の前に謙遜に仕える者であることを忘れてはいけないということです。私たちが倣うべき主イエス様は、神の子でありながらも、天の栄光を捨てられ、人としてこの世に来てくださいました。ピリピ書2章には「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」とあります。ですから、主人は、主人の身分であるからと言って奴隷に対し、その権力を振りかざし、おどしたり、虐げるようなことがあってはなりません。また、奴隷の身分の者も、自分が評価され、待遇を良くしてもらうために、主人の前だけ、主人に見えるように熱心に仕えているように振る舞ったり、おべっかやよいしょと使うことがあってはいけません。いくらうわべは従順であっても、心の中では軽蔑し侮辱していてはなにもなりません。自分の利益や出世のために主人の目をいつも気にしているとするならば、これは大変不自由な生き方です。言わば、精神的に自ら進んで奴隷状態に成り下がっているのです。「良いことを行なえば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。」(8節)の御言葉にあるように、誰であっても、どのような身分、立場であっても、謙遜に仕える者には、主が差別なく全く公平に報いて下さいます。

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