2012年11月11日日曜日

主の心が私の心です


マタイの福音書20章29~34節

 29 彼らがエリコを出て行くと、大ぜいの群衆がイエスについて行った。
 30 すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」
 31 そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」と叫び立てた。
 32 すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」
 33 彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」
 34 イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。

 過越しの祭りを前にして、イエス様はいよいよご自身の働きの完成されようとしておられます。しかし、それは、我々と同じ弱い肉体をもって世に来られたイエス様にとっては喜ばしいものではありませんでした。なぜなら、人類の罪の身代わりに、不当な裁判にかけられ、あざけられ、さげすまれた上に十字架にかけられることを通して救いの業を完成されるということだからです。そのような苦難を前にして、普通の人間であれば、他の人を省みる余裕など全く無いはずです。自分のことだけで頭が一杯なはずです。しかし、イエス様はそのような状況のなかでも、愛の眼差しを向け、救いの手を差し伸べます。誰に対してでしょうか。二人の目の見えない乞食に対してです。イエス様は彼らの声を聞き、歩みを止められます。そして、彼らを憐れみ、こう尋ねられます。「わたしに何をしてほしいのか」。彼らは答えます。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」ここで、主であるイエス様の思いと盲人たちの思いが一つとなります。 盲人たちを癒されたい主の思いと癒してほしい盲人たちの思いが一つとなったのです。そこでイエス様は彼らの目にさわられ、彼らは見えるようになりました。さらに癒された彼らは、すぐにイエス様に従いついて行ったのです。神の国の国民にとって大切なことは、神様と私たちの思いが一つとなることです。さらに言えば、神様の思いが、私たちの思いとなることです。それとは逆に、私たちの思いが、神様の思いであると思い込むのは大変危険であり、盲信的な信仰といえましょう。それが、この群衆のうちに見ることが出来ます。群衆は恐らく、過越しの祭りのため、エルサレムに上ろうとしていた人たちです。つまり彼らは神を信じる信仰を持った人たちだということができます。彼らもまたイエス様に対して期待をしていました。それは、イエス様が奇跡を行い、イスラエルの国をローマの支配から解放してくれる、かつてのダビデやソロモン王国時代の繁栄を取り戻してくれるのではないかという期待、信仰があったのではないでしょうか。しかし、その期待は見事に裏切られます。イエス様は、権力者、宗教家たちの策略によって捕えられてしまいます。自分達の地位が脅かされるのではないかという恐れから、自己保身のためにイエス様を亡き者にしようとしたのです。そのことに群衆はイエス様に失望し、怒りを表します。そしてついにはイエス様を「十字架につけろ」と叫ぶのです。このような自己中心的な信仰は、もはや信仰とは言えません。むしろ罪となってしまうのです。いくら熱心であったとしても、敬虔に見えていたとしても、自己中心的な信仰は恐ろしく、また非常に「たちが悪い」ものです。私たちが願うべきは、例え苦難の道を通ることがあっても、神と人々に仕え、この世に対し祝福の管となるイエス様の生き方です。
  

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