2013年4月22日月曜日
福音のためなら
Ⅰコリント9章19~23節
19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。
20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。
21 律法を持たない人々に対しては、――私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、――律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。
22 弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。
23 私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。
パウロは、イエス・キリストによる救いを得てから、その人生を全て「福音宣教」のために捧げたといっても良いでしょう。パウロは、もし福音を伝えることができないのなら、それは禍であると語っています。聖書を見ればよく分かるように、パウロほど福音宣教において、神様に用いられた人物はいなかったでしょう。彼の心にはいつも救霊の情熱がありました。「何とかして一人でも多くの人を救いに導きたい」「例え幾人かであっても、救いに導きたい」
そんな彼の福音宣教の方法には、大きく二つの側面があります。一つは、すべての人に対して福音を適用したということです。当時の一般的なユダヤ人の考えは、「救いはユダヤ人のみ」というものでした。ユダヤ人こそが、神によって選ばれた契約の民であり、救いを受けるにふさわしい民なのであって、それ以外の異邦人が、救われるなどと言うのは、まったくもって有りえないことであるということでした。しかし、彼は「異邦人の使徒」として、すべての民族に対し、この福音のメッセージを大胆に語り、救いへと導きました。二つ目は、すべての人の奴隷となった。即ち、すべての人に「仕えた」ということです。決して、上から目線で、福音を語ることはしませんでした。同国人であるユダヤ人には当然ですが、律法を持たない異邦人にも、また社会的にも、霊的にも弱い人々にも、彼は寄り添い、同じ目線で福音を語りました。私たち信仰者は、信仰生活が長くなると時として、自分を何か特別な存在に思ってしまう傾向があります。そして、この世が仕えるべき場ではなく、離れるべき対象になってしまうのです。そして、自分たちだけの居心地の良い「教会」を作り上げるのです。教会で話し合われることは、「交わり」中心になり、ますます教会が隔絶されたものになり、この世に対して何の影響力ももたらさなくなるのです。私たちは、例えどんな人であろうが、救いから離れた生活をしている人であろうが、「すべての人」に対し福音を伝え、また仕えるのです。福音の恵みを自分一人の占有物にしてはいけません。教会の中でのみ分かち合い、喜ぶものではありません。すべての隣人と共に福音の恵みを受け、味わうことを主は願っておられるのです。
2013年3月25日月曜日
神の愛に応えて
申命記6章4~6節
4 聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。
5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
6 私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。
同7章6~11節
6 あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。
7 主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。
8 しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。
9 あなたは知っているのだ。あなたの神、主だけが神であり、誠実な神である。主を愛し、主の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られるが、
10 主を憎む者には、これに報いて、主はたちどころに彼らを滅ぼされる。主を憎む者には猶予はされない。たちどころに報いられる。
11 私が、きょう、あなたに命じる命令――おきてと定め――を守り行なわなければならない。
出エジプトを果たしたイスラエルの民でしたが、約束の地カナン入国を前に、彼らは過渡的な状況にあったと言うことができます。それは①第一世代から、第二世代への世代交代、②荒野における遊牧生活から、カナンでの定住・農耕生活への転換といったことです。特に、これから入ろうとするカナンは豊穣の神バアルや穀物の神ダゴンなどといった異教の神々の霊的影響下にある土地でもありました。バアル礼拝においては宗教的売春が行われ、さらに人間をいけにえにささげる風習もありました。このような霊的環境において、新しい世代の人々が唯一の神との正しい関係を守っていくためには、すでに与えられた律法を改めて語り、教える必要がありました。それを、あたかも説教を語るようにして示したのが本書(申命記)です。神はモーセを通して、「聞きなさい(シェマー)イスラエル」「主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と語ります。これは、ただ単に神に対して無条件に服従しなさい、従順しなさいという意味ではありません。彼らが神を愛する理由は、まず神が彼らを愛され、選ばれたからこそだということです。 「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。」イスラエルの民は決して模範的な民族とは言えませんでした。せっかくの出エジプトを果たした後も、神に逆らい、不平や不満は消えることはありませんでした。しかし、神は永遠なる愛、契約の愛をもって、彼らを愛されたのです。その愛なる神ご自身の御言葉を刻み付けなさいというのです。他の神々に心を寄せてはならない。惑わされてはならない。あなたを真に愛しておられる神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。これこそが自らを守る道なのだと主は語られます。
4 聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。
5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
6 私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。
同7章6~11節
6 あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。
7 主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。
8 しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。
9 あなたは知っているのだ。あなたの神、主だけが神であり、誠実な神である。主を愛し、主の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られるが、
10 主を憎む者には、これに報いて、主はたちどころに彼らを滅ぼされる。主を憎む者には猶予はされない。たちどころに報いられる。
11 私が、きょう、あなたに命じる命令――おきてと定め――を守り行なわなければならない。
出エジプトを果たしたイスラエルの民でしたが、約束の地カナン入国を前に、彼らは過渡的な状況にあったと言うことができます。それは①第一世代から、第二世代への世代交代、②荒野における遊牧生活から、カナンでの定住・農耕生活への転換といったことです。特に、これから入ろうとするカナンは豊穣の神バアルや穀物の神ダゴンなどといった異教の神々の霊的影響下にある土地でもありました。バアル礼拝においては宗教的売春が行われ、さらに人間をいけにえにささげる風習もありました。このような霊的環境において、新しい世代の人々が唯一の神との正しい関係を守っていくためには、すでに与えられた律法を改めて語り、教える必要がありました。それを、あたかも説教を語るようにして示したのが本書(申命記)です。神はモーセを通して、「聞きなさい(シェマー)イスラエル」「主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と語ります。これは、ただ単に神に対して無条件に服従しなさい、従順しなさいという意味ではありません。彼らが神を愛する理由は、まず神が彼らを愛され、選ばれたからこそだということです。 「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。」イスラエルの民は決して模範的な民族とは言えませんでした。せっかくの出エジプトを果たした後も、神に逆らい、不平や不満は消えることはありませんでした。しかし、神は永遠なる愛、契約の愛をもって、彼らを愛されたのです。その愛なる神ご自身の御言葉を刻み付けなさいというのです。他の神々に心を寄せてはならない。惑わされてはならない。あなたを真に愛しておられる神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。これこそが自らを守る道なのだと主は語られます。
2013年3月23日土曜日
2013年3月12日火曜日
ただひたむきに
民数記14章27~38節
27 「いつまでこの悪い会衆は、わたしにつぶやいているのか。わたしはイスラエル人が、わたしにつぶやいているつぶやきを、もう聞いている。
28 あなたは彼らに言え。これは主の御告げである。わたしは生きている。わたしは必ずあなたがたに、わたしの耳に告げたそのとおりをしよう。
29 この荒野であなたがたは死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ。
30 ただエフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、あなたがたを住まわせるとわたしが誓った地に、だれも決してはいることはできない。
31 さらわれてしまうと、あなたがたが言ったあなたがたの子どもたちを、わたしは導き入れよう。彼らはあなたがたが拒んだ地を知るようになる。
32 しかし、あなたがたは死体となってこの荒野に倒れなければならない。
33 あなたがたの子どもたちは、この荒野で四十年の間羊を飼う者となり、あなたがたが死体となってこの荒野で倒れてしまうまで、あなたがたの背信の罪を負わなければならない。
34 あなたがたが、かの地を探った日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間あなたがたは自分の咎を負わなければならない。こうしてわたしへの反抗が何かを思い知ろう。
35 主であるわたしが言う。一つになってわたしに逆らったこの悪い会衆のすべてに対して、わたしは必ず次のことを行なう。この荒野で彼らはひとり残らず死ななければならない。
36 モーセがかの地を探らせるために遣わした者で、帰って来て、その地について悪く言いふらし、全会衆をモーセにつぶやかせた者たちも。」
37 こうして、その地をひどく悪く言いふらした者たちは、主の前に、疫病で死んだ。
38 しかし、かの地を探りに行った者のうち、ヌンの子ヨシュアと、エフネの子カレブは生き残った。
ピリピ3章12~14節
12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
せっかく信仰をもったのに(賜物として与えられたのに)、離れてしまう人が沢山います。なぜでしょうか。救いの確信がなかったのでしょうか。信仰が足りなかったのでしょうか。意志が弱かったのでしょうか。家族の反対があったのでしょうか。それとも教会に問題があったのでしょうか。指導者がいい加減だったのでしょうか。
イスラエルの民はどうだったでしょう。明確な救いの体験(出エジプト)があり、よき指導者(モーセ)がおり、生活の規範となる御言葉(律法)も与えられ、日々の食物(マナ)もあり、何より礼拝(いけにえ)を通して神様の愛と赦しと偉大さに触れることができました。しかし、彼らの中から「不平」「不満」「つぶやき」などが消えることはありませんでした。食物に対し、水に対し、指導者に対し、約束の地に対し、荒野での生活に対し、そして神に対し彼らはつぶやき、不平を述べました。結果として、第1回人口調査(民1章)で登録された人々は、38年後に行われた第2回人口調査において誰一人(エフネの子カレブとヌンの子ヨシュアを除いて)約束の地に入ることはできませんでした(民26:64)。これは一体なにが原因だったのでしょうか。環境のせいでしょうか。それほどまでに彼らの生活環境は悲惨なものだったのでしょうか。そうではありません。これは「自己中心」の問題なのです。自己中心は本当に恐ろしい罪です。自分中心が深刻なれば、自分の居場所を天国から地獄にすら変えることができてしまうのです。環境が変われば感謝できる。環境が変われば幸せになれると言いますがそうではありません。大切なのは聖霊によって変わることのないお方をいつも身に着けることです。「ただこの一事に、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走る」ことです。今の歩みが未来を決定するのです。「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」(Ⅱテモテ4:7-8)とパウロの告白が私たち一人一人の告白となりますようにイエス様のみ名で願います。
2013年3月7日木曜日
礼拝は聖なるものです
レビ記16章6~10節
6 アロンは自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。
7 二頭のやぎを取り、それを主の前、会見の天幕の入口の所に立たせる。
8 アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。
9 アロンは、主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。
10 アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。
19章2節
「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。
モーセ5書(創世記~申命記)の第3番目に位置しているレビ記は、出エジプトを果たしたイスラエルの民がどのように神様と向き合うのか、どのように神様に栄光をお捧するのかの具体的な方法を記した書です。「礼拝規定の書」とも言えるでしょう。
神様は19章2節の御言葉にあるように「聖」であられるお方です。全き「聖」です。ですから、礼拝を捧げる者たちもまた「聖」でなければならない、「聖なる者」として礼拝の場に出なければならないと言うのです。しかし、残念ながら私たちは「聖」なる者からはかけ離れた「罪人」です。神様の前にそのまま出ていくならば、たちどころに滅ぼされてしまうような、滅ぼされても仕方がない者たちです。では一体誰が主の前に進み出ることが出来るでしょうか。そこで神様は民に対して「いけにえ」を用意されました。罪のためのいけにえ、ここでは雄牛と2頭のやぎが用いられます。ここで「アザゼル」という行為が出てきます。これは何かというと、神様が定められた罪の赦しを得るための方法です。祭司は、まず1頭目のやぎの頭に手を置き、民の罪を告白します。これは罪をやぎに移すことを意味します。そしてそのやぎを屠ります。もう一頭も同様にし、今度は屠らずに、生きたまま野に放ちます。このアザゼルは、まさに私たちの罪のためにいけにえとなられたイエス・キリストを表わしているのです。私たちの罪をすべて背負い、十字架上で血を流され、死なれたイエス様です。罪のない方が、罪を負われ、神から切り離され、陰府に下られたイエス様です。このイエス様によって、イエス様の血潮によって私たちは「聖」なる者とされるのです。いや、イエス様の血潮以外に私たちを罪を洗い流し、聖めることが出来るものは何一つありません。ですから礼拝は、イエス・キリストが中心でなければいけません。イエス様のみ名が崇められ、イエス様の栄光が表われるものでなければいけません。人間がスポットライトを浴びる礼拝、十字架の前に心跪かない礼拝、これは礼拝ではありません。伝統的なスタイルの礼拝であれ、或いは様々なプログラムがあり、見た目は派手で、楽しい礼拝であれ、しかし、もし主の前に罪の悔い改めが何もないとするならば、果たしてそれは礼拝とは言えるのでしょうか。「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」礼拝とは何なのか、レビ記を通してもう一度省みる必要があるのではないでしょうか。
2013年2月26日火曜日
わたしは主である
出エジプト記6章2~8節
2 神はモーセに告げて仰せられた。「わたしは主である。
3 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現われたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった。
4 またわたしは、カナンの地、すなわち彼らがとどまった在住の地を彼らに与えるという契約を彼らに立てた。
5 今わたしは、エジプトが奴隷としているイスラエル人の嘆きを聞いて、わたしの契約を思い起こした。
6 それゆえ、イスラエル人に言え。わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。
7 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。
8 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地に、あなたがたを連れて行き、それをあなたがたの所有として与える。わたしは主である。」
イエス・キリストに対する呼び方として、ある人は「ナザレのイエス」と呼び、またある人は「私の主イエス」と呼びます。どちらも同じお方に対する呼び方ですが、しかしその響きは大きく異なります。それは、私たちがどのようにイエスさまを見ているか、どのように出会ったかによるということです。出エジプトの物語は、ヨセフの時代から400年以上経ち、苦役の中にあったイスラエルの民が、神が立てた指導者モーセに率いられてエジプトから救い出される物語です。これまでいくつもこの物語が題材とされた映画が発表されていますので、(チャールトン・ヘストン主演「十戒」やドリームワークスのアニメ「プリンス・オブ・エジプト」など)聖書の中でも特に多くの人に知られている物語かも知れません。しかし、この出エジプト記は、壮大な歴史ドラマや、モーセの英雄伝、イスラエル民族の民族大移動の物語として味わうことがその目的ではありません。「わたしは主である。」というお方を知り、「私の主」という告白に導かれることが真の目的です。私たちにとってエジプトとは、まさに私たちを究極的に苦しめ、悩ませる「罪」の問題を意味しています。罪から解放されない限り、私たちは永遠に「罪の奴隷」なのです。イスラエルを苦しめた、エジプトは「水」によって滅ぼされましたが、私たちも、「水」の洗い、即ちイエスの十字架を信じ、古い自分に死に、新しく生まれ変わるバプテスマにより、罪が洗いきよめられ、解放されるのです。あなたにとって、神様はどのようなお方でしょうか。「イスラエル民族の神」でしょうか、それとも「私の神、私の主」でしょうか。
2013年2月17日日曜日
永遠の契約
創世記3章21節
神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。
創世記15章6節
彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
旧新約聖書を通し貫かれている概念の一つに「契約」というものがあります。これは、神様と人間との間に結ばれた契約の事です。聖書の緒論とも言える創世記には、この契約の場面が多く登場しますが、その最初の契約(第一の契約、わざの契約)は、「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。(2:16-17)という契約でした。この契約を守るならば、エデンの園(パラダイス)において永遠の祝福を味わう事が出来たはずでした。しかし、人類はこの契約を破り、永遠の祝福を逃し、罪による呪い(エデンからの追放、労働の苦しみ、産みの苦しみ、病、死)がもたらされてしまいました。悔やんでも悔やみきれない、霊的に極めて深刻な状態となってしまった今の世において、アダムの子孫である私たちは日々苦しみを経験しています。しかし、神は決して人間を見捨てられませんでした。「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」(3:21)の御言葉にあるように、神はどこまでも憐れみ深く、いのちを犠牲にしてまで、人の罪を覆い、贖ってくださるのです。しかし、それには絶対に必要な条件があります。それは「信仰」です。神様を自らの救い主、主として受け入れ、信じることです。アダムとの第一の契約が破られた後、神は人類と第2の契約、すなわち恵みの契約を結ばれます。その代表がアブラハムです。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(12:1-3)「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」(15:1)「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」(15:5)アブラハムは神様が表わしてくださったこの契約を心に留め、「信じた」のです。「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(15:6)この恵みの契約は第一義的には神とアブラハムとの間に結ばれた契約ですが、しかし、私たち異邦の民もこの契約に預かることができるのです。イエス・キリストを信じ、受け入れるなら、私たちのこの契約の民に加えられるのです。「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」(ガラテヤ3:26-29)どうぞ、イエス・キリストを信じてください。永遠の神との契約により、永遠のいのちの祝福を手に入れてください。エデン(パラダイス)を手に入れてください。罪の呪いから解放されて下さい。
神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。
創世記15章6節
彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
旧新約聖書を通し貫かれている概念の一つに「契約」というものがあります。これは、神様と人間との間に結ばれた契約の事です。聖書の緒論とも言える創世記には、この契約の場面が多く登場しますが、その最初の契約(第一の契約、わざの契約)は、「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。(2:16-17)という契約でした。この契約を守るならば、エデンの園(パラダイス)において永遠の祝福を味わう事が出来たはずでした。しかし、人類はこの契約を破り、永遠の祝福を逃し、罪による呪い(エデンからの追放、労働の苦しみ、産みの苦しみ、病、死)がもたらされてしまいました。悔やんでも悔やみきれない、霊的に極めて深刻な状態となってしまった今の世において、アダムの子孫である私たちは日々苦しみを経験しています。しかし、神は決して人間を見捨てられませんでした。「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」(3:21)の御言葉にあるように、神はどこまでも憐れみ深く、いのちを犠牲にしてまで、人の罪を覆い、贖ってくださるのです。しかし、それには絶対に必要な条件があります。それは「信仰」です。神様を自らの救い主、主として受け入れ、信じることです。アダムとの第一の契約が破られた後、神は人類と第2の契約、すなわち恵みの契約を結ばれます。その代表がアブラハムです。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(12:1-3)「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」(15:1)「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」(15:5)アブラハムは神様が表わしてくださったこの契約を心に留め、「信じた」のです。「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(15:6)この恵みの契約は第一義的には神とアブラハムとの間に結ばれた契約ですが、しかし、私たち異邦の民もこの契約に預かることができるのです。イエス・キリストを信じ、受け入れるなら、私たちのこの契約の民に加えられるのです。「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」(ガラテヤ3:26-29)どうぞ、イエス・キリストを信じてください。永遠の神との契約により、永遠のいのちの祝福を手に入れてください。エデン(パラダイス)を手に入れてください。罪の呪いから解放されて下さい。
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