2012年9月25日火曜日
主は良い牧者
エゼキエル34章11節から16節
11 まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。
12 牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。
13 わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。
14 わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。
15 わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。――神である主の御告げ。――
16 わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。
羊はイスラエル人にとって最も身近であり、生活を支えていた動物でした。その性質は、おとなしく、素直で、従順ですが、反面、愚かで、弱く、迷いやすい人間を表す形容としても用いられています。ここで言う羊とは神によって選ばれ、祝福の民として、神の守りの中にいながらも、神に背き、バビロンに捕囚されたイスラエルの民の姿を表わしています。そんな愚かな羊の姿として描かれている民でありましたが、神は彼らを「わたしの羊」と呼んでいます。そして、主はこのように語られます。「わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。」(16節)国を奪われ、神殿を破壊され、異教の国での暮らしを余儀なくされている、まさに失われた状態である彼らに対し、神はどこまでも憐れみ深く、「捜し」、「連れ戻し」、「包み」、「力づけ」、「敵を滅ぼし」、「正しいさばきを持って養う」と語れるのです。愛と癒しと義と聖であられる神の姿をここに見ることができます。あなたが今主なる神に求めるならば、主イエスの御名を呼ぶならば、神はご自身の姿を表わして下さいます。
2012年9月10日月曜日
最高の捧げもの
ルカ7章36~50節
36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。
37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、
38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。
39 イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。
40 するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。シモンは、「先生。お話しください。」と言った。
41 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
42 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
43 シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。
44 そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。
45 あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。
46 あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。
47 だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」
48 そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。
49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」
50 しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」
神様の目で見るならばすべての人は平等です。すべての人は神によって創られたという点で平等であり、良い人にも悪い人にも雨を降らせるといった点でも平等であり、すべての人のために御子が十字架にかかられたという点でも平等です。しかし、現実社会には平等でない現実があります。富める者と貧しい者、平和ボケしている国に生れた者と平和と言う言葉を知らない国に生れた者、幸せな家庭に生まれた者と争いが絶えない家庭に生れた者・・・ しかし、そのような社会を作り出してしまったのは、もちろん神ではなく人間です。神を呪うのではなく、私たちの生き方こそ問われなければならないのです。
本文に登場する二人の人物、パリサイ人シモンと罪深い女、そのいずれも褒められる人物ではないことがわかります。人を見下し、自分を義とし、外見は敬虔に神に仕えていると言っておきながら、神の独り子を敬わないシモン。そして罪深い女もやはり、その町では知られた遊女であり、男に媚を売り、聖霊の宮である自分のからだをもって神の栄光を現わすどころか、かえって自分の身を傷つけ、罪の生活に陥っていた女。しかし、この二人には決定的な違いがありました。それは身分の差でも性別の差でも、仕事の質の差でもありません。「自分が罪人なんだ」との自覚の差です。神様の目で見るならば、すべての人間は罪人です。「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)のです。ですからこの二人はいずれも神の目から見れば罪人ですが、シモンはその自覚がありませんでした。イエス様の足を洗うことをせず、口づけもせず、頭に油を塗ることをしませんでした。一方、女は罪人であるとの自覚がありました。涙を流して、自分の髪の毛でイエス様の足を洗い、口づけをし、香油を塗りました。香油は当時大変高価なもので、香油を失うことは大変な損失であり、「貧困の道」とも言われていました。しかし、たとえ自分が貧しくなろうとも、そのすべてに勝る価値をイエス様のうちに彼女は見出し、すべてを捧げたのです。
イエス様は平等に憐み深く、また遜る者に対して平等に救いを成し遂げてくださるお方です。この二人の罪人はともにその機会がありました。しかし、「あなたの罪は赦されています。」(48)と救いを宣言されたのは女の方でした。そして優しく、また権威をもってこう語られました。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」(50)罪人であるとの自覚が深まると、恵みもまた増し加わるのです。そして、イエス様にすべてを捧げて、謙遜にお仕えする者になるのです。
36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。
37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、
38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。
39 イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。
40 するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。シモンは、「先生。お話しください。」と言った。
41 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
42 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
43 シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。
44 そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。
45 あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。
46 あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。
47 だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」
48 そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。
49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」
50 しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」
神様の目で見るならばすべての人は平等です。すべての人は神によって創られたという点で平等であり、良い人にも悪い人にも雨を降らせるといった点でも平等であり、すべての人のために御子が十字架にかかられたという点でも平等です。しかし、現実社会には平等でない現実があります。富める者と貧しい者、平和ボケしている国に生れた者と平和と言う言葉を知らない国に生れた者、幸せな家庭に生まれた者と争いが絶えない家庭に生れた者・・・ しかし、そのような社会を作り出してしまったのは、もちろん神ではなく人間です。神を呪うのではなく、私たちの生き方こそ問われなければならないのです。
本文に登場する二人の人物、パリサイ人シモンと罪深い女、そのいずれも褒められる人物ではないことがわかります。人を見下し、自分を義とし、外見は敬虔に神に仕えていると言っておきながら、神の独り子を敬わないシモン。そして罪深い女もやはり、その町では知られた遊女であり、男に媚を売り、聖霊の宮である自分のからだをもって神の栄光を現わすどころか、かえって自分の身を傷つけ、罪の生活に陥っていた女。しかし、この二人には決定的な違いがありました。それは身分の差でも性別の差でも、仕事の質の差でもありません。「自分が罪人なんだ」との自覚の差です。神様の目で見るならば、すべての人間は罪人です。「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)のです。ですからこの二人はいずれも神の目から見れば罪人ですが、シモンはその自覚がありませんでした。イエス様の足を洗うことをせず、口づけもせず、頭に油を塗ることをしませんでした。一方、女は罪人であるとの自覚がありました。涙を流して、自分の髪の毛でイエス様の足を洗い、口づけをし、香油を塗りました。香油は当時大変高価なもので、香油を失うことは大変な損失であり、「貧困の道」とも言われていました。しかし、たとえ自分が貧しくなろうとも、そのすべてに勝る価値をイエス様のうちに彼女は見出し、すべてを捧げたのです。
イエス様は平等に憐み深く、また遜る者に対して平等に救いを成し遂げてくださるお方です。この二人の罪人はともにその機会がありました。しかし、「あなたの罪は赦されています。」(48)と救いを宣言されたのは女の方でした。そして優しく、また権威をもってこう語られました。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」(50)罪人であるとの自覚が深まると、恵みもまた増し加わるのです。そして、イエス様にすべてを捧げて、謙遜にお仕えする者になるのです。
2012年8月28日火曜日
収穫の主に委ねなさい
マタイ13章24~30節、 36~43節
24 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
25 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。
26 麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。
27 それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』
28 主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』
29 だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
30 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」
36 それから、イエスは群衆と別れて家にはいられた。すると、弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください。」と言った。
37 イエスは答えてこう言われた。「良い種を蒔く者は人の子です。
38 畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。
39 毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。
40 ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。
41 人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、
42 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
43 そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。
正義が存在するところには、必ず悪もまた存在します。最初から悪であることを願う人間はいませんが、しかし罪人である人間に対し、悪魔が巧妙に働きかけ、いつの間にか、良い麦が毒麦へと変わっているということがあります。しかも、時が経ち、実が結ばれるまでは、良い麦と見分けがつかないのです。
しかし、毒麦であるこの世の悪を引き抜いたら世界は本当によくなるのでしょうか。自由が保障されいる国であれ、戒厳令が執行されている国であれ、悪はどこの国でも存在するのです。それは悪魔サタンが存在している限り我々の力では、我々の義ではどうにもならないのです。我々の義とは、イエス・キリストの義のみであり、再臨の時にその義によって、完全な審判がなされます。我々が成すべきことは、自らの義で人を裁くことではなく、この世の悪を滅ぼすことではなく、イエス様の福音の光に照らされて、御霊に満たされて、太陽のように輝くことです。
24 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
25 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。
26 麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。
27 それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』
28 主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』
29 だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
30 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」
36 それから、イエスは群衆と別れて家にはいられた。すると、弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください。」と言った。
37 イエスは答えてこう言われた。「良い種を蒔く者は人の子です。
38 畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。
39 毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。
40 ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。
41 人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、
42 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
43 そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。
正義が存在するところには、必ず悪もまた存在します。最初から悪であることを願う人間はいませんが、しかし罪人である人間に対し、悪魔が巧妙に働きかけ、いつの間にか、良い麦が毒麦へと変わっているということがあります。しかも、時が経ち、実が結ばれるまでは、良い麦と見分けがつかないのです。
しかし、毒麦であるこの世の悪を引き抜いたら世界は本当によくなるのでしょうか。自由が保障されいる国であれ、戒厳令が執行されている国であれ、悪はどこの国でも存在するのです。それは悪魔サタンが存在している限り我々の力では、我々の義ではどうにもならないのです。我々の義とは、イエス・キリストの義のみであり、再臨の時にその義によって、完全な審判がなされます。我々が成すべきことは、自らの義で人を裁くことではなく、この世の悪を滅ぼすことではなく、イエス様の福音の光に照らされて、御霊に満たされて、太陽のように輝くことです。
2012年7月30日月曜日
コリアンフェスティバル2012のご案内
アンニョンハセヨ!!
今年もやってきました。コリアンフェスティバル。
8月4日(土)18:00から20:00です。
韓国料理に、ゴスペルダンス、演劇など盛りだくさんです。
お友だちをお誘いの上どなたでもお越しください。
お金は一切かかりません。
お待ちしています!
今年もやってきました。コリアンフェスティバル。
8月4日(土)18:00から20:00です。
韓国料理に、ゴスペルダンス、演劇など盛りだくさんです。
お友だちをお誘いの上どなたでもお越しください。
お金は一切かかりません。
お待ちしています!
2012年7月23日月曜日
神の国がここに
マルコ4章1節~9節
4:1 イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。
4:2 イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。
4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
4:4 蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
4:5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
4:6 しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
4:7 また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。
4:8 また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」
4:9 そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
福音書に見られるイエス様が語られたメッセージの中心、それは「神の国」だと言っても過言ではありません。何よりも、主イエス様は、「時が満ち、神の国は近くなった」(マルコ1:15)という宣言をもって公生涯を開始し、御自身の派遣が神の国を宣べ伝えることにあると語ってます。さらに、イエス様の弟子たちの仕事も神の国にかかわるものであり、同じ主題を宣べ伝えました。
神の国は、「『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:21)と主は語っておられますが、しかし、神の国は単に心の在り方、観念を語っているのではありません。イエス様が語る神の国は、きわめて具体的、実存的なものなのです。人生の全領域、物事の全領域、万物の秩序に至るまで、現実世界の中に突入してくるものであり、そしてそれは必ず大いなる祝福をもたらすものです。しかし、その神の国の祝福が自らのものになるかならないかは、私たちの信仰にかかっているのです。根が浅かったり、世のことのみに関心が良き、いばらが伸び放題であるなら実を結ぶことができません。良い地に落ちた時に30倍、60倍、100倍の祝福があるのです。だからこそ主は語られるのです。「聞く耳のある者は聞きなさい。」と。イエス様の十字架による贖いにより、私たちはだれでも神の国の国民になる資格があるのです。
4:1 イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。
4:2 イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。
4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
4:4 蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
4:5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
4:6 しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
4:7 また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。
4:8 また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」
4:9 そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
福音書に見られるイエス様が語られたメッセージの中心、それは「神の国」だと言っても過言ではありません。何よりも、主イエス様は、「時が満ち、神の国は近くなった」(マルコ1:15)という宣言をもって公生涯を開始し、御自身の派遣が神の国を宣べ伝えることにあると語ってます。さらに、イエス様の弟子たちの仕事も神の国にかかわるものであり、同じ主題を宣べ伝えました。
神の国は、「『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:21)と主は語っておられますが、しかし、神の国は単に心の在り方、観念を語っているのではありません。イエス様が語る神の国は、きわめて具体的、実存的なものなのです。人生の全領域、物事の全領域、万物の秩序に至るまで、現実世界の中に突入してくるものであり、そしてそれは必ず大いなる祝福をもたらすものです。しかし、その神の国の祝福が自らのものになるかならないかは、私たちの信仰にかかっているのです。根が浅かったり、世のことのみに関心が良き、いばらが伸び放題であるなら実を結ぶことができません。良い地に落ちた時に30倍、60倍、100倍の祝福があるのです。だからこそ主は語られるのです。「聞く耳のある者は聞きなさい。」と。イエス様の十字架による贖いにより、私たちはだれでも神の国の国民になる資格があるのです。
2012年7月11日水曜日
愛と励ましの便り
エペソ人への手紙6章21節から24節
21 あなたがたにも私の様子や、私が何をしているかなどを知っていただくために、主にあって愛する兄弟であり、忠実な奉仕者であるテキコが、一部始終を知らせるでしょう。
22 テキコをあなたがたのもとに遣わしたのは、ほかでもなく、あなたがたが私たちの様子を知り、また彼によって心に励ましを受けるためです。
23 どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。
24 私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。
テキコは、パウロの手紙をエペソの教会の人たちに届けた人物です。彼のした働きは小さなものでした。しかし、彼のような忠実な奉仕があって教会は建てられるのです。忠実な、謙遜な奉仕を通して神の国は建設されていくのです。「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」(Ⅱテモテ2:2)
いや、それどころか彼のような忠実な奉仕が無ければ、神の国は決して作られないのです。主は、律法学者、パリサイ人たちを「わざわい」「偽善者」と呼び、「・・・はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。」(マタイ23:23口語訳)と指摘されました。実に主が求めておられるのは、地味であっても、小さな事にも忠実な奉仕者です。「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」(ルカ16:10)
そして、彼のような存在を通して、教会の交わりはさらに豊かなものとされます。「平安と信仰に伴う愛」が溢れるのです。なぜならそれは最も謙遜で、十字架の死にまでも忠実に従った「主イエス・キリストから」来るものだからです。
21 あなたがたにも私の様子や、私が何をしているかなどを知っていただくために、主にあって愛する兄弟であり、忠実な奉仕者であるテキコが、一部始終を知らせるでしょう。
22 テキコをあなたがたのもとに遣わしたのは、ほかでもなく、あなたがたが私たちの様子を知り、また彼によって心に励ましを受けるためです。
23 どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。
24 私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。
テキコは、パウロの手紙をエペソの教会の人たちに届けた人物です。彼のした働きは小さなものでした。しかし、彼のような忠実な奉仕があって教会は建てられるのです。忠実な、謙遜な奉仕を通して神の国は建設されていくのです。「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」(Ⅱテモテ2:2)
いや、それどころか彼のような忠実な奉仕が無ければ、神の国は決して作られないのです。主は、律法学者、パリサイ人たちを「わざわい」「偽善者」と呼び、「・・・はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。」(マタイ23:23口語訳)と指摘されました。実に主が求めておられるのは、地味であっても、小さな事にも忠実な奉仕者です。「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」(ルカ16:10)
そして、彼のような存在を通して、教会の交わりはさらに豊かなものとされます。「平安と信仰に伴う愛」が溢れるのです。なぜならそれは最も謙遜で、十字架の死にまでも忠実に従った「主イエス・キリストから」来るものだからです。
2012年7月3日火曜日
福音は勝利の宣言
エペソ人への手紙6章19~20節
19 また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。
20 私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。
福音と言う言葉は、もともと戦勝報告を意味する言葉です。キリスト者にとって霊的戦いの結末は必ず勝利で終わるのです。ではキリスト者は何に対して勝利を得ているのでしょうか。
一つ目は罪の負債に対する勝利です。コロサイ書2章13~14節に「あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」とあります。悪魔サタンは私たちのどうにもならない罪の問題を通して私たちの存在を責め、混乱させ、動揺させてきますが、主は十字架で勝利を取ってくださいました。
二つ目は孤独に対する勝利です。アダムの堕落によって彼らはエデンの園を追放されて以来、人類にとって孤独は大きなトラウマとなってしまいました。しかし、聖書は語ります。ヘブル13章5節「主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』」、ローマ8章31節「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」同8章33節「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」
三つ目は人類にとって決して解決不可能な問題、死に対する勝利です。Ⅰコリント15章53節~57節「朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
キリスト者はこの勝利を世に向かって大胆に宣言することが出来るのです。真のキリスト者に敗北の二文字は無いのです。
19 また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。
20 私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。
福音と言う言葉は、もともと戦勝報告を意味する言葉です。キリスト者にとって霊的戦いの結末は必ず勝利で終わるのです。ではキリスト者は何に対して勝利を得ているのでしょうか。
一つ目は罪の負債に対する勝利です。コロサイ書2章13~14節に「あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」とあります。悪魔サタンは私たちのどうにもならない罪の問題を通して私たちの存在を責め、混乱させ、動揺させてきますが、主は十字架で勝利を取ってくださいました。
二つ目は孤独に対する勝利です。アダムの堕落によって彼らはエデンの園を追放されて以来、人類にとって孤独は大きなトラウマとなってしまいました。しかし、聖書は語ります。ヘブル13章5節「主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』」、ローマ8章31節「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」同8章33節「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」
三つ目は人類にとって決して解決不可能な問題、死に対する勝利です。Ⅰコリント15章53節~57節「朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
キリスト者はこの勝利を世に向かって大胆に宣言することが出来るのです。真のキリスト者に敗北の二文字は無いのです。
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