2012年5月12日土曜日

母の日礼拝のご案内

5月13日は母の日礼拝です。
時間は通常通り10時半からです。
母への感謝と共に、喜びを持って神様に礼拝を捧げましょう。

戦う相手を間違ってはいけません

エペソ6章10~14節
 10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
 11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
 12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
 13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
 14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め(なさい)。

エペソの手紙の締めくくりは、「霊的な戦い」について書かれています。それは、敬虔に生きることを願うすべてのクリスチャンにとって決して避けては通れないことだからです。最近至る所でよく教会や牧師の批判をする声を聞きます。確かに責められる方にはそれなりの問題があるのでしょう。悔い改めなければならないことはしっかり悔い改める必要があります。しかし、相手を批判することで自らが正しいことをしているだなどと錯覚してはいけません。私たちが真に戦うべき敵を間違ってはいけません。「 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(12節)悪魔サタンの策略に乗って、裁き合い、罵り合うなら、それはサタンの思うつぼです。クリスチャンは神の武具を持って、この悪魔サタンと戦うのです。神の武具の第一番目は、真理の帯です。厳密にはこれは武器や防具ではありません。鎧の下に着る服を締めるものです。言わば、戦いの前の心構えを表わします。これまで学んできたように、一致と従順な信仰を決して忘れてはいけません。人の義ではなく真理の御言葉こそに権威があることを忘れてはいけません。そして、真理そのものであるイエス・キリストからそれてはいけません。

2012年5月4日金曜日

幸せな上下関係

エペソ6章5節~9節
 5 奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。
 6 人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、
 7 人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。
 8 良いことを行なえば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。
 9 主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。

従順の教えの最後は、奴隷と主人との関係です。奴隷と言っても、この当時の奴隷は決して人格を無視されたモノのような存在ではなく、社会の中で保護され、家族の一員としてみなされるケースさえもありました。ですから、ここでの主人と奴隷はいわば雇用者と被雇用者の関係、また上司と部下の関係などと置き換えて考えてみれば良いでしょう。しかし、やはりここでも大切なのは、主人であれ、奴隷であれ、それぞれが主の前に謙遜に仕える者であることを忘れてはいけないということです。私たちが倣うべき主イエス様は、神の子でありながらも、天の栄光を捨てられ、人としてこの世に来てくださいました。ピリピ書2章には「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」とあります。ですから、主人は、主人の身分であるからと言って奴隷に対し、その権力を振りかざし、おどしたり、虐げるようなことがあってはなりません。また、奴隷の身分の者も、自分が評価され、待遇を良くしてもらうために、主人の前だけ、主人に見えるように熱心に仕えているように振る舞ったり、おべっかやよいしょと使うことがあってはいけません。いくらうわべは従順であっても、心の中では軽蔑し侮辱していてはなにもなりません。自分の利益や出世のために主人の目をいつも気にしているとするならば、これは大変不自由な生き方です。言わば、精神的に自ら進んで奴隷状態に成り下がっているのです。「良いことを行なえば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。」(8節)の御言葉にあるように、誰であっても、どのような身分、立場であっても、謙遜に仕える者には、主が差別なく全く公平に報いて下さいます。

2012年4月25日水曜日

幸せな親子関係

エペソ人への手紙6章1~4節
 1 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。
 2 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、
 3 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。
 4 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。

出エジプト記20章にモーセの十戒が記されていますが、その構成は、第一戒から第四戒までは神と人との関係について、第五戒から第十戒までが人間関係についての戒律となっています。本日の説教箇所でもあるエペソの手紙6章2~3節に引用されている御言葉は、その内の第五戒、すなわち人間関係における第一番目の戒めです。子どもにとって尊敬すべき、従うべき対象はまず誰よりも両親です。コロサイ書3章20節でも「子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。」と記されています。また主イエス様も、「・・・ナザレに帰って、両親に仕えられた。」(ルカ2章51節)とあるように、イエス様も両親を心から愛し、仕え、従いました。このように両親を敬い、従うことは、幸せなことであり、祝福なのです。
しかし、一方で親も子を育て、教育することが求められます。親は子を愛し、受け止め、そして人生の良き模範とならなければいけません。特に大切なのが父親の役割です。「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」(4節)母ではなく、父です。新共同訳では「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」とあります。単に父の権威を振りかざして、厳しくしつけるのではなく、主イエス様がされたように、子を養い、教育し、諭しなさいというのです。その根底には深い愛情が必要です。子のためにいのちを捨てる覚悟が必要です。例え子どもが失敗しても、上手くいかなくても、親の理想とはかけ離れていても、主イエス様の愛情を持って、忍耐を持って、教え、訓戒することが大切です。このような親の深い愛によって育たれてた子は、親を通し、特に父親を通し、父なる神の愛を知るのです。子の信仰生活に多大なる良い影響を与えるのです。父なる神に対する健全な信仰を子が持つなら、「権威」というものを正しく理解します。自然と従いの心を持つようになります。あなたの親子関係はいかがですか。
親を責める前に、子を責める前に、まず自分はどうでしょうか。

2012年4月20日金曜日

幸せな夫婦と教会

エペソ5章21節~33節

 21 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。
 22 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。
 23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。
 24 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。
 25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
 26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
 27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
 28 そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。
 29 だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。
 30 私たちはキリストのからだの部分だからです。
 31 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」
 32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。
 33 それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。

夫婦関係はこの世で最も基本的で、小さな人間関係の場ですが、しかし、人生において最も親密で大切な関係です。夫婦関係がこじれると、親子関係は勿論、様々な社会生活にも悪影響がでます。結婚生活は同棲などでは決してありません。単に愛し合う男女が一緒に同じ家に住むことなどと安易に考えてはいけません。そもそも結婚は、人間の愛から始まったものではありません。人間を創造された神様から出発しているのです。創世記2章で、最初の人類アダムを創造された後に、神様は「「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」と考え、女の人を作られました。結婚は人の考えではなく、何よりも神様が人間への祝福のために決められたことです。単に好きだから、いっしょになりたいから、結婚するのではないのです。ですから、当然夫婦の関係も、神様を中心として捉えなければなりません。神であるイエス様が愛されたように、夫はたとえ自分が犠牲になることがあっても、一生の間、専ら妻を愛するのです。いのちを捨ててまでも妻を愛し守り支えるのです。それに対し、妻もまたかしらである夫に心からの従順と尊敬を持って仕え、従うのです。この神が定められた創造の秩序に従い、夫婦生活を成す時に、ふたりは真の意味で「一心同体」となるのです。麗しく、美しい一致が生みだされるのです。すべてはキリストが中心です。

2012年3月27日火曜日

みこころは何であるか

エペソ人への手紙5章15節~21節
 15 そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、
 16 機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。
 17 ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。
 18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。
 19 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。
 20 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。
 21 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。

「自分の罪過と罪の中に死んでいた」(エペソ2:1)私たちが救われ、きよめられ、完成へと至るのはもちろん主である神様ご自身です。自分の力ではどうにもならない原罪を持つ私たちが、根本的に、まったく新しくされるのは、神の業、聖霊の業です。しかし、だからといって自らの救いの達成のために何もせず、ただ世に流されていても仕方がないことだとは聖書は教えていません。無力であることを認めながらも、古き自分に失望しながらも、なおも主の恵みに期待し、霊的成長を遂げることを決して怠ってはいけません。ここでは、泥酔による放蕩についての戒めが言われていますが、放蕩は、別な言い方では「破滅的」、ある英語の聖書では「浪費」と訳されている言葉です。日本はお酒に寛容な?国ですが、実に多くの人が毎年泥酔によって、多くのものを失っています。さらにはいのちを落としている者もいるのです。私たちを真に解放し、自由にし、失われない喜びをもたらすものは、アルコールなどではなく、御霊に満たされることです。「自分の心に正直に、素直に生きる」などと言うことがスマートな言葉として良く言われますが、自分が罪人であることを認めるならば、それは必ずしも、自由な生き方ではないことが分かります。なぜなら、私たちは「悪い時代」に生きており、何が正しくて、何が間違っているか、何が正義かが非常に曖昧な世から多分に影響を受けているからです。自分で良かれと思っていることが、聖書から見るならば必ずしも正しくないということが多いにあるのです。真の聖徒は、自分の心、思いを最優先させるのではなく、主のみこころは何であるかをまず問うのです。自分の思考や願望を持ってきて、「これが御心に違いない」などと錯覚してはいけません。日々御言葉を黙想し、賢い歩みを選び取りましょう。

2012年3月25日日曜日