2011年9月30日金曜日

韓流ゴスペル オンギジャンイコンサート2011

さいたま市北区にあるキリスト教会
大宮教会プレゼンツ

今年もやってきます!韓流ゴスペル、オンギジャンイコンサート!

今回は、日曜日の礼拝とのジョイントです


ゴスペルファンも、韓流ファンも、教会に興味がある方も、どなたでもお越しください


入場無料です

お待ちしてます!

和解の十字架

エペソ人への手紙2章11節から16節

11ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、
12 そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。
13 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。
14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、
16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。

人間の中には、差別意識や優越心、或いは敵対心といった感情があります。それを露骨に表に出す場合もありますし、密かに抱いている場合もまた多いでしょう。かつて、イスラエルの神殿には、隔ての壁が存在していました。神殿と異邦人の庭との間に石の壁が建っており、そこにはギリシャ語とラテン語でこう書かれてあったそうです。「他民族の誰も、宮の壁の中にも、また囲いの地にも入ってはいけない。そして、誰でもこの規則を破るものは結果的に、自らの身に死を招くことになる」
しかし、聖書にはこう記されています。「主イエス・キリストの十字架によって、敵意は廃棄された。葬り去られた。」
まず、私たちは神との和解が必要です。私たちを創造し、最も愛し、慈しんで下さっているにも関わらず、私たちが一方的に関係を断ち切ってしまった神様との和解です。そしてそのことが成し遂げられたなら、次に人間関係における和解が実現します。敵を愛することができるように神様が私たちを作りかえて、きよめてくださるのです。もし心に葛藤を覚えている人がいるなら、このように祈ってみてください。「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」(マタイ6章12節)

2011年9月18日日曜日

神様の最高傑作

エペソ人への手紙2章1~10節
1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――
6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

「見よ。それは非常によかった。」(創世記1:31)私たちは、神様によって創られた非常に良い傑作品であり、祝福を受けるべき存在であると聖書は語っています。価値ある存在、尊い存在だとも語っています。しかし、今日多くの人のが、自分の本当の価値に気が付いていません。それどころか、自分の価値を自らが下げてさえいるのである。我欲(物欲や、金銭欲、性欲など)に支配された人間は、一時の快楽と歓びを味わうことができるかも知れませんが、しかしそれが度を過ぎてしまうと、自らを楽しませるどころか、かえって自らを傷付けたり、人間としての価値を下げてしまうことにもなってしまいます。聖書はそれを「自分の罪過と罪との中に死んでいる」状態だと語ります。神の御怒りを受けても弁解の余地がない、仕方がないのだとも語ります。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちに対するその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいた私たち生かしてくださいました。それは、決して滅びに至らないいのち、完全ないのち、罪のないキリストのいのちをもって私たちを贖って下さったのです。私たちの徳や、功績や、善行や、修行の結果ではなく、ただ神の一方的な憐みのゆえです。例え私たちが自分のことをどのように思っていようが、そのように評価していようが、主イエスを信じ、キリストのいのちが留まるならば、私たちを神のかたちに新しく再創造してくださり、良い行いに歩むことが出来る者、本当に価値ある生き方をすることが出来る者としてくださるのです。どうぞこの完全ないのち、完全な愛を受け取ってください。

2011年9月4日日曜日

栄光の主イエス・キリスト

エペソ人への手紙1章20~21節

20神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

神の御子であり、栄光の王であるイエス・キリストはすべての名の上に置かれるべきお方です。王の王、主の主です。しかし、2000年前の地上における主イエスの生涯は、しもべの姿として仕えられました。『・・・彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。・・・』(イザヤ書53章2~3節)
ですが今や、主イエスは死を打ち破り、天に昇られ、今や栄光の姿でこの世を支配しておられます。そして、教会にイエス様の権能の力を与えて下さいました。教会にはイエス様が満ちておられ、教会はイエス様の愛によって立て上げられているのです。ここでいう教会とは、建物のことでも、組織のことでも、宗教団体のことでもありません。教会はギリシヤ語では、エクレーシヤといい、神様の恵みよって、召集された神の契約の民の集まりのことをいいます。ですから、教会の主体、教会のかしらはイエス様であり、教会はイエス様ご自身のものです。個人の占有物でもなければ、上に立つ者が自らを誇る場ではありません。栄光の王である、主だけが崇められ、褒め称えられる場であり、私たちがひざまずく場です。

2011年8月28日日曜日

全ての栄光は主に

第一コリント書10章31~33節

31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。
32 ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。
33 私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。

自分にとって利益となることを嫌がる人はいないでしょう。また自分が成功することを喜ばない人もいないでしょう。しかし、もし自分に利益があっても、そのことによって結果、誰かをつまずかせることになってしまったとするならどうでしょう。
聖書は、あなたがたは何をするにもすべての栄光は神様に捧げなさいと語ります。あなたが成功しなくても良い、利益がなくても良いという意味ではありません。ただあなたは自分一人で存在しているのではなく、また自分の能力だけで功績をあげるわけではないということです。神様が自分に機会を与え、賜物を与え、助けてを与えて下さっているのだということを忘れてはならないと、感謝を忘れてはならないというのです。 旧約聖書の創世記10章にニムロデという人が出てきます。この人は「地上で最初の権力者」であり、 『彼は主のおかげで、力ある猟師になったので、「主のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ。」と言われるようになった。』(創10:9)とあります。彼の治めた王国は「シヌアル」の地とありますが、しかし、その地には後に、神の裁きが下り、人々が散らされる結果となってしまします。なぜでしょう。それは人々が栄光を神に帰さないで、今の自分たちの繁栄があるのは神のおかげだということを忘れ、傲慢になり、人間の力で神に近づき、神のようになろうとしたからです。『われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。』(創11:4)神様のおかげで、与えられた地に、神の名ではなく、自分たちの名を残そうとしたのです。そう、これは有名なバベルの塔のお話です。神様のおかげだということを忘れてはならない場所、神様に栄光を捧げるべきシヌアルの地に、背信と裁きの象徴であるバベルを築いてしまったのです。
すべての栄光は主にあります。私たちを創り、治め、また救いに導いて下さった主こそが栄光を受けられるにふさわしいお方です。

2011年8月12日金曜日

賛美の力

詩編34編1~6節
 1 私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。
 2 私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。
 3 私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。
 4 私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。
 5 彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。「彼らの顔をはずかしめないでください。」
 6 この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、彼らはすべての苦しみから救われた。

賛美は、神様が私たちの授けて下さった素晴らしい賜物です。賛美は単なる歌ではありません。順境の時も、いやむしろ逆境の時にこそ賛美をすることができるのです。それは、私たちの内におられる主が永遠のお方であり、いつも私たちに希望を与え、信仰を与えて下さるからです。
ファニー・クロスビーという人は、生涯を主と共に生きた人です。しかし、彼女の生涯は、初めから障害に満ちていました。生後6週間で、眼科医の医療ミスにより両目の視力を完全に失ってしまいます。盲目ゆえの差別や不条理、理不尽な体験を余儀なくされてしまいました。しかし、彼女が30歳の時、「光」に出会います。その光はどんなに彼女の心を暗く覆う闇が迫ってきても、彼女の中で圧倒的に光輝き、希望を与えました。それはイエス・キリストという光です。彼女は45歳から本格的な賛美歌を作り始めました。そして亡くなる95歳までに、生涯8000を超える賛美歌を作りました。実に年間160曲です。彼女の口にはいつも主への賛美がありました。ほめたたえがありました。祈りがありました。主イエスを心に受け入れ、主と共に歩むなら、どんなに恐怖が襲い掛かって来ても、苦しみの中にあっても、賛美の力、祈りの力により、闇に打ち勝つ光が私たちを輝かせるのです。

2011年7月14日木曜日

神様の計画と人生の目的

エペソ人への手紙1章1節~6節

1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。
2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
6 それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。


この世界と私たちを創られた唯一の神様は、私たちを神様の目的に従って創造されました。その目的とは、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いを信じることにより、神の御前で聖別され、神の子とされること。そして、私たちの存在を通して神様がほめたたえられることです。その計画は私たちが神様を意識する前から、母の胎に形作られる以前から、いやこの世界の基が置かれる前からの永遠の計画なのだと聖書は語ります。神の御前で、どんな罪人であろうが、孤独な者であろうが、私たちが神様に立ち返るならば、神様はいかに私たちを愛し、慈しみ、尊んでおられるのか、そして、自分に向けられた神様の救いがどんなに素晴らしいものであるのか、私たちがこの世に生を受けた本当の意味が分かるのです。