2011年8月28日日曜日

全ての栄光は主に

第一コリント書10章31~33節

31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。
32 ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。
33 私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。

自分にとって利益となることを嫌がる人はいないでしょう。また自分が成功することを喜ばない人もいないでしょう。しかし、もし自分に利益があっても、そのことによって結果、誰かをつまずかせることになってしまったとするならどうでしょう。
聖書は、あなたがたは何をするにもすべての栄光は神様に捧げなさいと語ります。あなたが成功しなくても良い、利益がなくても良いという意味ではありません。ただあなたは自分一人で存在しているのではなく、また自分の能力だけで功績をあげるわけではないということです。神様が自分に機会を与え、賜物を与え、助けてを与えて下さっているのだということを忘れてはならないと、感謝を忘れてはならないというのです。 旧約聖書の創世記10章にニムロデという人が出てきます。この人は「地上で最初の権力者」であり、 『彼は主のおかげで、力ある猟師になったので、「主のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ。」と言われるようになった。』(創10:9)とあります。彼の治めた王国は「シヌアル」の地とありますが、しかし、その地には後に、神の裁きが下り、人々が散らされる結果となってしまします。なぜでしょう。それは人々が栄光を神に帰さないで、今の自分たちの繁栄があるのは神のおかげだということを忘れ、傲慢になり、人間の力で神に近づき、神のようになろうとしたからです。『われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。』(創11:4)神様のおかげで、与えられた地に、神の名ではなく、自分たちの名を残そうとしたのです。そう、これは有名なバベルの塔のお話です。神様のおかげだということを忘れてはならない場所、神様に栄光を捧げるべきシヌアルの地に、背信と裁きの象徴であるバベルを築いてしまったのです。
すべての栄光は主にあります。私たちを創り、治め、また救いに導いて下さった主こそが栄光を受けられるにふさわしいお方です。

2011年8月12日金曜日

賛美の力

詩編34編1~6節
 1 私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。
 2 私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。
 3 私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。
 4 私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。
 5 彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。「彼らの顔をはずかしめないでください。」
 6 この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、彼らはすべての苦しみから救われた。

賛美は、神様が私たちの授けて下さった素晴らしい賜物です。賛美は単なる歌ではありません。順境の時も、いやむしろ逆境の時にこそ賛美をすることができるのです。それは、私たちの内におられる主が永遠のお方であり、いつも私たちに希望を与え、信仰を与えて下さるからです。
ファニー・クロスビーという人は、生涯を主と共に生きた人です。しかし、彼女の生涯は、初めから障害に満ちていました。生後6週間で、眼科医の医療ミスにより両目の視力を完全に失ってしまいます。盲目ゆえの差別や不条理、理不尽な体験を余儀なくされてしまいました。しかし、彼女が30歳の時、「光」に出会います。その光はどんなに彼女の心を暗く覆う闇が迫ってきても、彼女の中で圧倒的に光輝き、希望を与えました。それはイエス・キリストという光です。彼女は45歳から本格的な賛美歌を作り始めました。そして亡くなる95歳までに、生涯8000を超える賛美歌を作りました。実に年間160曲です。彼女の口にはいつも主への賛美がありました。ほめたたえがありました。祈りがありました。主イエスを心に受け入れ、主と共に歩むなら、どんなに恐怖が襲い掛かって来ても、苦しみの中にあっても、賛美の力、祈りの力により、闇に打ち勝つ光が私たちを輝かせるのです。

2011年7月14日木曜日

神様の計画と人生の目的

エペソ人への手紙1章1節~6節

1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。
2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
6 それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。


この世界と私たちを創られた唯一の神様は、私たちを神様の目的に従って創造されました。その目的とは、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いを信じることにより、神の御前で聖別され、神の子とされること。そして、私たちの存在を通して神様がほめたたえられることです。その計画は私たちが神様を意識する前から、母の胎に形作られる以前から、いやこの世界の基が置かれる前からの永遠の計画なのだと聖書は語ります。神の御前で、どんな罪人であろうが、孤独な者であろうが、私たちが神様に立ち返るならば、神様はいかに私たちを愛し、慈しみ、尊んでおられるのか、そして、自分に向けられた神様の救いがどんなに素晴らしいものであるのか、私たちがこの世に生を受けた本当の意味が分かるのです。

2011年7月12日火曜日

コリアンナイトフェスティバルのお知らせ





今年も基督兄弟団大宮教会では、韓国からの青年たちをお招きして、コリアンナイトフェスティバルを開催いたします。おいしくてスタミナ満点の韓国料理、現代的な韓国のパフォーマンス、バイブルメッセージなど内容盛りだくさんです。どうぞ、ご家族で、ご友人でお気軽にお越しください。入場は無料です。(食事代ももちろんかかりませんよ)会場は出入り自由ですから、とりあえず遊びに来て観て、韓国の文化に触れてみてはいかがでしょうか。
7月30日(土)夕方5:30-9:00です。お待ちしてます!

2011年7月6日水曜日

悪しき勢力に気をつけなさい

ヨハネの手紙第一5章16節~21節
16 だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。
17 不正はみな罪ですが 、死に至らない罪があります。
18 神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。
19 私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。
20 しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。
21 子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。

すべての人間にとって、決して避けることができないこと。それは「死」の問題です。善人だろうが悪人だろうが、健康な人だろうが病弱な人だろうが、長寿だろうが短命だろうが、結局誰一人として、死から逃れることはできません。 人類が神から離れ、罪が入り込んだ結果、『罪から来る報酬は死です。』(ローマ書6章23節)となったのです。
しかし、この箇所が意味する「死」は。所謂、肉体の死ではなく、魂の死(第2の死)の問題を扱っています。肉体の死が終わった後の、永遠の世界(死後の世界)の問題のことです。 すなわち、永遠の御国(天国)の祝福を預かることができるのか、それとも永遠の刑罰(地獄)が待っているのか。
キリスト教信仰の神髄は、死んだ後に明確な答えを持っていることです。即ち、神の御子イエス・キリストを自らの罪の身代わりに十字架にかかって死んでくださり、しかし、三日の後によみがえって下さったと信じる信仰によって、罪から解放され義とされて、永遠のいのちを持つことができるということです。信じる者達は神が罪の支配、悪い者(サタン)の力から守って下さるのです(18節)。
死に至る罪を犯す者とは、人々を神の支配から引き離そうとするもの、イエス・キリストの恵みと憐れみの世界から、人々を引き離そうとする勢力のことを意味します。信じるあなた方は、その悪しき勢力を警戒し、また守られるようにと、ヨハネは願っているのです。どうぞ真実はお方であり、永遠のいのちの源である主イエス・キリストから離れないでください。

2011年6月29日水曜日

ベストアンサー

第一ヨハネ5章15節
『私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。』

出エジプト記17章に、エジプトを出て約束の地を目指すイスラエルの民が、アマレクと戦い勝利した記事があります。指導者であるモーセは、丘の頂に上って手をあげて祈りを捧げました。モーセが手を上げているとイスラエルが優勢になり、手を下ろすとアマレクが優勢になったとの有名な話です。多くのクリスチャンはこの話を知っています。しかしホントに重要なのは話を「知っている」ことではなく、この話のように、実際に「祈りによって勝利した」体験を持つことなのです。聖書ははっきりと私たちに語りかけます。「何でも神のみこころに叶う願い(祈り)をするなら、神はその願い(祈り)を聞いて下さり、そして、その願い(祈り)はすでに叶えられた」のだと。マルコの11章24節にも『祈って求めるものは何でもすでに受けたと信じなさい。そうすればその通りになります。』とあります。
ここで大切なのは、信仰です。祈りは必ず答えらえるのだ、いや既に神のみこころのままに答えられているのだという信仰です。主が祈りに答えて下さる訳ですから、答えられる形は様々です。祈った通りに答えらえることもあるし、祈ったこととは別な形で答えられることもあるでしょう。しかし、すべては全能の主がなさることですから、その答えは最善です。
答えられるタイミングもそれぞれです。緊急性のある祈りなら、すぐに答えられるかも知れませんし、1週間後、1か月後、祈りによっては或いは1年後、10年後かも知れません。ですから祈りを捧げた聖徒が取るべき態度は以下の言葉です。『あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。』(ヘブル10章36節)
主なる神は、信仰と忍耐と御霊のとりなしによって御心を求める祈りを一つとして地に落とすことなく、必ず聞き入れ、そしてご自身のみこころのままに、私たちにとって最善の答えを下さるのです。

2011年6月22日水曜日

神の御心にかなう祈り

第一ヨハネ5章14節
『何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。』

天の神様は、イエスの御名による祈りをすべて聞いて下さいます。幼い子どもの祈りでも、熟練した信仰者の祈りでも、神様はすべての者の祈りを聞いて下さり、ご自身の御心のままに御業を成してくださいます。しかし、ここで大事なことは、『何事でも神のみこころにかなう願いをするなら』ということです。主イエス様の祈りはいつも天の父の御心を求めていました。主が弟子たちに教えて下さった「主の祈り」でも、『みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。』と天の御心を求めなさいと言われました。また、弟子に裏切られ、十字架に磔にされ殺される前に捧げたゲツセマネの祈りにおいてさえも、『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。・・・わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』と天の父の御心を求め祈られました。
天の御心が成るならば、それはすべて私たちにとっては感謝なことであり、最善のことです。祝福だとも言えます。ですが、その最善はいつも喜ばしいこと、嬉しいことばかりとは限りません。時には挫折したり、壁にぶち当たったり、思いがけない困難や悲しみを経験することもあるのです。しかし、もし、その悲しみが『神のみこころに沿った悲しみ』ならば、『悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます』(第2コリント7章10節)。私たちを整え、聖別し、さらに深い主の恵みの世界へと導いてくれるのです。自分の欲望や野望を叶える自己中心的な祈りではなく、また、パリサイ人のように、人に見せつけ、人から賞賛されるための欺瞞の祈りでもなく、主の御心を求める祈りこそがあなたにとって最善であり、祝福の道なのです。