2013年3月25日月曜日

神の愛に応えて

申命記6章4~6節

 4 聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。
 5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
 6 私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。

同7章6~11節

 6 あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。
 7 主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。
 8 しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。
 9 あなたは知っているのだ。あなたの神、主だけが神であり、誠実な神である。主を愛し、主の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られるが、
 10 主を憎む者には、これに報いて、主はたちどころに彼らを滅ぼされる。主を憎む者には猶予はされない。たちどころに報いられる。
 11 私が、きょう、あなたに命じる命令――おきてと定め――を守り行なわなければならない。



 出エジプトを果たしたイスラエルの民でしたが、約束の地カナン入国を前に、彼らは過渡的な状況にあったと言うことができます。それは①第一世代から、第二世代への世代交代、②荒野における遊牧生活から、カナンでの定住・農耕生活への転換といったことです。特に、これから入ろうとするカナンは豊穣の神バアルや穀物の神ダゴンなどといった異教の神々の霊的影響下にある土地でもありました。バアル礼拝においては宗教的売春が行われ、さらに人間をいけにえにささげる風習もありました。このような霊的環境において、新しい世代の人々が唯一の神との正しい関係を守っていくためには、すでに与えられた律法を改めて語り、教える必要がありました。それを、あたかも説教を語るようにして示したのが本書(申命記)です。神はモーセを通して、「聞きなさい(シェマー)イスラエル」「主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と語ります。これは、ただ単に神に対して無条件に服従しなさい、従順しなさいという意味ではありません。彼らが神を愛する理由は、まず神が彼らを愛され、選ばれたからこそだということです。 「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。」イスラエルの民は決して模範的な民族とは言えませんでした。せっかくの出エジプトを果たした後も、神に逆らい、不平や不満は消えることはありませんでした。しかし、神は永遠なる愛、契約の愛をもって、彼らを愛されたのです。その愛なる神ご自身の御言葉を刻み付けなさいというのです。他の神々に心を寄せてはならない。惑わされてはならない。あなたを真に愛しておられる神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。これこそが自らを守る道なのだと主は語られます。


2013年3月23日土曜日

2013イースター礼拝のご案内



どなたでもお越しください。
心よりお待ちしています。
祝福し歓迎します!!


2013年3月12日火曜日

ただひたむきに


民数記14章27~38節
 27 「いつまでこの悪い会衆は、わたしにつぶやいているのか。わたしはイスラエル人が、わたしにつぶやいているつぶやきを、もう聞いている。
 28 あなたは彼らに言え。これは主の御告げである。わたしは生きている。わたしは必ずあなたがたに、わたしの耳に告げたそのとおりをしよう。
 29 この荒野であなたがたは死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ。
 30 ただエフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、あなたがたを住まわせるとわたしが誓った地に、だれも決してはいることはできない。
 31 さらわれてしまうと、あなたがたが言ったあなたがたの子どもたちを、わたしは導き入れよう。彼らはあなたがたが拒んだ地を知るようになる。
 32 しかし、あなたがたは死体となってこの荒野に倒れなければならない。
 33 あなたがたの子どもたちは、この荒野で四十年の間羊を飼う者となり、あなたがたが死体となってこの荒野で倒れてしまうまで、あなたがたの背信の罪を負わなければならない。
 34 あなたがたが、かの地を探った日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間あなたがたは自分の咎を負わなければならない。こうしてわたしへの反抗が何かを思い知ろう。
 35 主であるわたしが言う。一つになってわたしに逆らったこの悪い会衆のすべてに対して、わたしは必ず次のことを行なう。この荒野で彼らはひとり残らず死ななければならない。
 36 モーセがかの地を探らせるために遣わした者で、帰って来て、その地について悪く言いふらし、全会衆をモーセにつぶやかせた者たちも。」
 37 こうして、その地をひどく悪く言いふらした者たちは、主の前に、疫病で死んだ。
 38 しかし、かの地を探りに行った者のうち、ヌンの子ヨシュアと、エフネの子カレブは生き残った。

ピリピ3章12~14節

 12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
 13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
 14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

 せっかく信仰をもったのに(賜物として与えられたのに)、離れてしまう人が沢山います。なぜでしょうか。救いの確信がなかったのでしょうか。信仰が足りなかったのでしょうか。意志が弱かったのでしょうか。家族の反対があったのでしょうか。それとも教会に問題があったのでしょうか。指導者がいい加減だったのでしょうか。
 イスラエルの民はどうだったでしょう。明確な救いの体験(出エジプト)があり、よき指導者(モーセ)がおり、生活の規範となる御言葉(律法)も与えられ、日々の食物(マナ)もあり、何より礼拝(いけにえ)を通して神様の愛と赦しと偉大さに触れることができました。しかし、彼らの中から「不平」「不満」「つぶやき」などが消えることはありませんでした。食物に対し、水に対し、指導者に対し、約束の地に対し、荒野での生活に対し、そして神に対し彼らはつぶやき、不平を述べました。結果として、第1回人口調査(民1章)で登録された人々は、38年後に行われた第2回人口調査において誰一人(エフネの子カレブとヌンの子ヨシュアを除いて)約束の地に入ることはできませんでした(民26:64)。これは一体なにが原因だったのでしょうか。環境のせいでしょうか。それほどまでに彼らの生活環境は悲惨なものだったのでしょうか。そうではありません。これは「自己中心」の問題なのです。自己中心は本当に恐ろしい罪です。自分中心が深刻なれば、自分の居場所を天国から地獄にすら変えることができてしまうのです。環境が変われば感謝できる。環境が変われば幸せになれると言いますがそうではありません。大切なのは聖霊によって変わることのないお方をいつも身に着けることです。「ただこの一事に、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走る」ことです。今の歩みが未来を決定するのです。「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」(Ⅱテモテ4:7-8)とパウロの告白が私たち一人一人の告白となりますようにイエス様のみ名で願います。

2013年3月7日木曜日

礼拝は聖なるものです


レビ記16章6~10節
 6 アロンは自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。
 7 二頭のやぎを取り、それを主の前、会見の天幕の入口の所に立たせる。
 8 アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。
 9 アロンは、主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。
 10 アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。

19章2節
 「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。

 モーセ5書(創世記~申命記)の第3番目に位置しているレビ記は、出エジプトを果たしたイスラエルの民がどのように神様と向き合うのか、どのように神様に栄光をお捧するのかの具体的な方法を記した書です。「礼拝規定の書」とも言えるでしょう。
 神様は19章2節の御言葉にあるように「聖」であられるお方です。全き「聖」です。ですから、礼拝を捧げる者たちもまた「聖」でなければならない、「聖なる者」として礼拝の場に出なければならないと言うのです。しかし、残念ながら私たちは「聖」なる者からはかけ離れた「罪人」です。神様の前にそのまま出ていくならば、たちどころに滅ぼされてしまうような、滅ぼされても仕方がない者たちです。では一体誰が主の前に進み出ることが出来るでしょうか。そこで神様は民に対して「いけにえ」を用意されました。罪のためのいけにえ、ここでは雄牛と2頭のやぎが用いられます。ここで「アザゼル」という行為が出てきます。これは何かというと、神様が定められた罪の赦しを得るための方法です。祭司は、まず1頭目のやぎの頭に手を置き、民の罪を告白します。これは罪をやぎに移すことを意味します。そしてそのやぎを屠ります。もう一頭も同様にし、今度は屠らずに、生きたまま野に放ちます。このアザゼルは、まさに私たちの罪のためにいけにえとなられたイエス・キリストを表わしているのです。私たちの罪をすべて背負い、十字架上で血を流され、死なれたイエス様です。罪のない方が、罪を負われ、神から切り離され、陰府に下られたイエス様です。このイエス様によって、イエス様の血潮によって私たちは「聖」なる者とされるのです。いや、イエス様の血潮以外に私たちを罪を洗い流し、聖めることが出来るものは何一つありません。ですから礼拝は、イエス・キリストが中心でなければいけません。イエス様のみ名が崇められ、イエス様の栄光が表われるものでなければいけません。人間がスポットライトを浴びる礼拝、十字架の前に心跪かない礼拝、これは礼拝ではありません。伝統的なスタイルの礼拝であれ、或いは様々なプログラムがあり、見た目は派手で、楽しい礼拝であれ、しかし、もし主の前に罪の悔い改めが何もないとするならば、果たしてそれは礼拝とは言えるのでしょうか。「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」礼拝とは何なのか、レビ記を通してもう一度省みる必要があるのではないでしょうか。