2012年11月26日月曜日

試練の中でも喜ぶ信仰

ペテロの手紙第一4章12~19節
 12 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、
 13 むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。
 14 もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
 15 あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行なう者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。
 16 しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。
 17 なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。
 18 義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。
 19 ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。

 キリスト者であるが故に、受けなければならない苦しみがあります。それは聖書の価値観と世の価値観に違いがあるからです。しかし、神の御心に沿った「苦しみ」「試練」は、「何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむこと」(12節)も、「恥じること」(16節)も、動揺する必要もありません。むしろ、喜びなさいと言うのです。それは、試練を通してあなたのうちになされる以下のことに目を留めましょう。
 ①「キリストの苦しみと愛を知ります」。キリストの名のために非難を受けるとき、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、私たちの上にとどまってくださり(14節)、キリストの苦難、十字架の痛み、愛の深さを知るのです。十字架経験が深まれば深まるほど、より信仰が確かなものになり、強い信仰者へと変えられるのです。
 また、②「聖別される」のです。信仰者としての試練は、燃えさかる火のような試練であると言います。刀を鍛えるときにも、熱い火の中を必ず通しますが、私たちも聖霊の火によって霊的に訓練されるのです。そして、自らの力では解決できない罪の問題にも解決が与えられます。「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、・・・患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:2-5)試練を通して、人格が整えられ、人の痛みが分かる人になり、聖霊によって注がれた神の愛を人々に施す人になるのです。
 ですから、例え人々から理不尽な責めを受けたとしても、自らの力で決して復讐したり、裁いてはいけないのです。大切なことは、③「神の裁きに委ねる」ことです。神様が公義をもって裁いてくださるのです。「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。」(17‐18節)
 そして、信仰の戦いを最後まで守り抜いた者には、主なる神様が④「栄光の冠を与えて下さる」のです。 「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(5:10)「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」(1:7)
 今、あなたは信仰を持ったがゆえに戦いを経験していますか。日本の国でクリスチャンとして生きることに困難を覚えていますか。誰かから霊的な攻撃を受けていますか。どうぞ愛する聖徒のみなさん!!「あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから」喜びましょう。そして、「神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せ」しましょう。

2012年11月19日月曜日

召天者記念礼拝


「死は勝利にのまれた」

ヨハネの黙示録21章1~4節
 1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
 2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
 3 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
 4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

コリント人への手紙第一15章50~58節
 50 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
 51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
 52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
 53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
 54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。
 55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
 56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
 57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
 58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

 「死」は誰にとっても恐ろしいもの、忌み嫌われるもの、悲しいものです。それはなぜでしょう。創世記には人間が罪を犯し神様から離れた結果、人類に死が入り込んだと記されています。すなわち、このように言う事が出来ます。「死」というのは、神様から離れている状態、神様が共におられない状態だということです。だから、人類にとっては一番の悲しみであり、不幸であり、恐れなのです。人々の心に神様がいないから、神様を拒否しているから、神様はいないと否定しているから、死は恐ろしいものでしかないのです。さらに「血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」(Ⅰコリント15:50)罪によりやがて朽ち果てていくしかない人間は決して神の国(天国)を相続できないというのです。
 では、どうすれば神の国を相続できるのでしょうか。答えは「死」を乗り越えるほかありません。「死」に勝利するしかありません。それは罪人である人間には絶対に出来ないことです。罪と死の呪いを打ち破り復活したいのちを頂く以外に方法はありません。それは、神の独り子イエス・キリストによって与えられます。2000年前に十字架の死から復活したイエス様は天に昇られましたが、再びこの世に来られます。そのとき以下の出来事が起こります。「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。」(Ⅰコリント15:52-54)主を信じ、復活のいのちを持つ者たちは、朽ちることのない栄光の身体が与えられるというのです。しかも、その者たちの行きつく先は、完全なる神が治められる安息の世界だというのです。恐れや嘆きはなく、感謝と賛美のみがある世界です。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3-4)まさに、平和の神である唯一の神様が治める場所が天国なのであり、そこが私たちの目指すべき所であり、復活のいのちを持つ者に対する約束の地なのです。

2012年11月11日日曜日

主の心が私の心です


マタイの福音書20章29~34節

 29 彼らがエリコを出て行くと、大ぜいの群衆がイエスについて行った。
 30 すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」
 31 そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」と叫び立てた。
 32 すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」
 33 彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」
 34 イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。

 過越しの祭りを前にして、イエス様はいよいよご自身の働きの完成されようとしておられます。しかし、それは、我々と同じ弱い肉体をもって世に来られたイエス様にとっては喜ばしいものではありませんでした。なぜなら、人類の罪の身代わりに、不当な裁判にかけられ、あざけられ、さげすまれた上に十字架にかけられることを通して救いの業を完成されるということだからです。そのような苦難を前にして、普通の人間であれば、他の人を省みる余裕など全く無いはずです。自分のことだけで頭が一杯なはずです。しかし、イエス様はそのような状況のなかでも、愛の眼差しを向け、救いの手を差し伸べます。誰に対してでしょうか。二人の目の見えない乞食に対してです。イエス様は彼らの声を聞き、歩みを止められます。そして、彼らを憐れみ、こう尋ねられます。「わたしに何をしてほしいのか」。彼らは答えます。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」ここで、主であるイエス様の思いと盲人たちの思いが一つとなります。 盲人たちを癒されたい主の思いと癒してほしい盲人たちの思いが一つとなったのです。そこでイエス様は彼らの目にさわられ、彼らは見えるようになりました。さらに癒された彼らは、すぐにイエス様に従いついて行ったのです。神の国の国民にとって大切なことは、神様と私たちの思いが一つとなることです。さらに言えば、神様の思いが、私たちの思いとなることです。それとは逆に、私たちの思いが、神様の思いであると思い込むのは大変危険であり、盲信的な信仰といえましょう。それが、この群衆のうちに見ることが出来ます。群衆は恐らく、過越しの祭りのため、エルサレムに上ろうとしていた人たちです。つまり彼らは神を信じる信仰を持った人たちだということができます。彼らもまたイエス様に対して期待をしていました。それは、イエス様が奇跡を行い、イスラエルの国をローマの支配から解放してくれる、かつてのダビデやソロモン王国時代の繁栄を取り戻してくれるのではないかという期待、信仰があったのではないでしょうか。しかし、その期待は見事に裏切られます。イエス様は、権力者、宗教家たちの策略によって捕えられてしまいます。自分達の地位が脅かされるのではないかという恐れから、自己保身のためにイエス様を亡き者にしようとしたのです。そのことに群衆はイエス様に失望し、怒りを表します。そしてついにはイエス様を「十字架につけろ」と叫ぶのです。このような自己中心的な信仰は、もはや信仰とは言えません。むしろ罪となってしまうのです。いくら熱心であったとしても、敬虔に見えていたとしても、自己中心的な信仰は恐ろしく、また非常に「たちが悪い」ものです。私たちが願うべきは、例え苦難の道を通ることがあっても、神と人々に仕え、この世に対し祝福の管となるイエス様の生き方です。
  

2012年11月10日土曜日

使える人と仕える人

マタイの福音書20章20~28節

 20 そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。
 21 イエスが彼女に、「どんな願いですか。」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」
 22 けれども、イエスは答えて言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます。」と言った。
 23 イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」
 24 このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。
 25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
 26 あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
 27 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
 28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」

 「使える人」と「仕える人」。今日のテキストのタイトルです。この人は「使えるなあ」とか、或いは逆に「使い物にならないなあ」という言葉を良く聞きます。自由主義経済、競争社会は極めてシビアです。使える人は成功者であり、使えない人は敗北者です。ですからこの世は皆が生き残るために、取り残されないために必死です。切られないように上を目指すのです。しかし、聖書が語る神の国においては「使える」ことより、「仕える」ことがより重要だと語ります。
 イエスの弟子であるゼベダイの子(ヤコブとヨハネ)の母親はイエスの所に来て、「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」とひれ伏して懇願します。神の国の意味を、この母親は理解できていませんでした。母親だけでなく、ふたりの息子も、またこの抜け駆けをしようとしたことに腹を立てた他の10人の弟子たちも同様に理解できていませんでした。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。」神の国は、競争社会でもなければ、上昇志向が無ければ切られてしまう世界ではありません。神の憐みの中で、恵みによって生きる世界です。最も社会の底辺にいるものにさえも光が当てられ、癒され、立ち上がることができるのが神の国です。どうしてそれが可能なのでしょうか。それは、神の国を治めておられる王が、最も謙遜で、低い所に下されたお方だからです。仕えられるためではなく、仕えるために来られたお方だからです。罪により失われ行く魂を、永遠のいのちへと導くため、自分のいのちさえも捧げられたお方が治めておられるからです。その王なるお方が私たちに語るのです。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。」「使える者」より、「仕える者」でありなさい。これこそが私たちが歩むべき神の国の生き方です。