2011年6月29日水曜日

ベストアンサー

第一ヨハネ5章15節
『私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。』

出エジプト記17章に、エジプトを出て約束の地を目指すイスラエルの民が、アマレクと戦い勝利した記事があります。指導者であるモーセは、丘の頂に上って手をあげて祈りを捧げました。モーセが手を上げているとイスラエルが優勢になり、手を下ろすとアマレクが優勢になったとの有名な話です。多くのクリスチャンはこの話を知っています。しかしホントに重要なのは話を「知っている」ことではなく、この話のように、実際に「祈りによって勝利した」体験を持つことなのです。聖書ははっきりと私たちに語りかけます。「何でも神のみこころに叶う願い(祈り)をするなら、神はその願い(祈り)を聞いて下さり、そして、その願い(祈り)はすでに叶えられた」のだと。マルコの11章24節にも『祈って求めるものは何でもすでに受けたと信じなさい。そうすればその通りになります。』とあります。
ここで大切なのは、信仰です。祈りは必ず答えらえるのだ、いや既に神のみこころのままに答えられているのだという信仰です。主が祈りに答えて下さる訳ですから、答えられる形は様々です。祈った通りに答えらえることもあるし、祈ったこととは別な形で答えられることもあるでしょう。しかし、すべては全能の主がなさることですから、その答えは最善です。
答えられるタイミングもそれぞれです。緊急性のある祈りなら、すぐに答えられるかも知れませんし、1週間後、1か月後、祈りによっては或いは1年後、10年後かも知れません。ですから祈りを捧げた聖徒が取るべき態度は以下の言葉です。『あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。』(ヘブル10章36節)
主なる神は、信仰と忍耐と御霊のとりなしによって御心を求める祈りを一つとして地に落とすことなく、必ず聞き入れ、そしてご自身のみこころのままに、私たちにとって最善の答えを下さるのです。

2011年6月22日水曜日

神の御心にかなう祈り

第一ヨハネ5章14節
『何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。』

天の神様は、イエスの御名による祈りをすべて聞いて下さいます。幼い子どもの祈りでも、熟練した信仰者の祈りでも、神様はすべての者の祈りを聞いて下さり、ご自身の御心のままに御業を成してくださいます。しかし、ここで大事なことは、『何事でも神のみこころにかなう願いをするなら』ということです。主イエス様の祈りはいつも天の父の御心を求めていました。主が弟子たちに教えて下さった「主の祈り」でも、『みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。』と天の御心を求めなさいと言われました。また、弟子に裏切られ、十字架に磔にされ殺される前に捧げたゲツセマネの祈りにおいてさえも、『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。・・・わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』と天の父の御心を求め祈られました。
天の御心が成るならば、それはすべて私たちにとっては感謝なことであり、最善のことです。祝福だとも言えます。ですが、その最善はいつも喜ばしいこと、嬉しいことばかりとは限りません。時には挫折したり、壁にぶち当たったり、思いがけない困難や悲しみを経験することもあるのです。しかし、もし、その悲しみが『神のみこころに沿った悲しみ』ならば、『悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます』(第2コリント7章10節)。私たちを整え、聖別し、さらに深い主の恵みの世界へと導いてくれるのです。自分の欲望や野望を叶える自己中心的な祈りではなく、また、パリサイ人のように、人に見せつけ、人から賞賛されるための欺瞞の祈りでもなく、主の御心を求める祈りこそがあなたにとって最善であり、祝福の道なのです。

2011年6月15日水曜日

ペンテコステの喜び

ルカの福音書24章49節
『さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。』

今週の主日はペンテコステ(五旬節)礼拝でした。ところで、ペンテコステとは何のことでしょうか。
ペンテコステ(五旬節)とは、50日目の祭日という意味で、大麦の初穂の束をささげる日から数えて50日目(7週間後)に行われた祭り(七週の祭りとも言う)がその起源です。立ち穂に鎌が入れられて始まった大麦の収穫の終りを意味するとともに、小麦の収穫の時でもあります。それゆえ「刈り入れの祭り」(出23:16)、「初穂の日」(民28:26)とも呼ばれています。この祭はイスラエルの3大祭(種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭り)の一つであり、その日にはいかなる労働もしてはならず、聖なる会合が開かれて、イスラエル人のすべての男子は主の前に出ることが義務づけられていました。まさに、収穫の恵みに対する感謝と主に対する畏れを表現した祭りと言えます。

十字架上の死と葬りから3日の後に復活したイエスは、弟子たちに神の国の福音を委ねます。「あなたがたは、キリストの復活の証人」だと。しかし、弱く、信仰が不足した、イエス様がいないと何とも頼りない彼らにすべてを任せたのではありません。『わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。』(ヨハネの福音書14章16,17節)との言葉通り、聖霊を彼らに送ると約束して下さったのです。聖霊は、助ける神であり、人々にイエスを指し示す神であり、イエスご自身と同じ三位一体の神です。だからあなたがたは出て行く前に、そのお方を待ちなさい、聖霊を受けなさいと言われたのです。そして、その約束の聖霊が降られた日がまさに五旬節、ペンテコステの朝でした。聖霊が降られるまで、弟子たちは集まって祈りをしていたと聖書には記されています。おそらく弟子達は、主のみ前に悔い改め、ひれ伏し、悔い改め、熱心に祈っていたことでしょう。そして、聖霊を受けた彼らは、いよいよ力に満ち溢れて、イエスの復活と神の国を証しします。使徒の働き2章には、1日に3千人がイエスを信じ救われ、さらに毎日心を一つにして主を喜び礼拝し、救われる人が起こされたとあります。まさに、旧約時代の7週の祭りのごとく、彼らは収穫の恵みに対する感謝と主に対する畏れを体験したのでした。

この約束は彼らだけのものではありません。新約時代を生きる私たちにも御霊の約束が与えられています。御霊を受けましょう。共に主を喜び、主を畏れましょう。