2012年9月30日日曜日
ただ、子であるから
ルカ15章11節から32節
11 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。
12 弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。
13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
21 息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。
25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、
26 しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、
27 しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
28 すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
31 父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」
以前ある方にこのたとえ話をし、感想を求めたところ、このような反応が返ってきました。「この弟は親の金でやりたい放題して、勝手に貧しくなった。どう見ても自業自得なのに、父の所に帰ればよいと考えるのはあまりにも虫が良すぎる。しかし、それよりももっと問題なのは父の方だ。まだ未熟で何の考えもない息子に対して莫大な財産を渡してこうなることは分からなかったのか。しかも、帰ってきた息子を無条件で受け入れる。普通なら勘当だ。父も弟もあまりにも甘い。」いかがでしょうか。皆さんもそう思われますか。
ここでは父は天の父なる神を表わし、弟は取税人や遊女などの罪人、兄は律法学者、パリサイ人を指しています。しかし、この弟もまた兄も私たちの姿ではないでしょうか。神は創世記1章26節で「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられました。人間に神の性質に似た素晴らしい霊的権威を与え、さらにこの地上を支配させる特権まで無条件でお与えになられました。この世を神様の喜ばれる素晴らしい、愛に満ちた、平和な世にして欲しいという願いを込めて。しかし、現実の世界はどうでしょう。この世は人間の醜い罪と欲によって、争いと対立、殺戮と戦争が絶えません。環境は破壊され、汚染され続けています。地球上の食糧をすべて集めれば十分にあるのに、一部の人にだけ富が集中して、世界ではおよそ7人に1 人、約9億2,500万人が飢餓に苦しんでいると言います。
さらに、この兄の姿も同様です。この兄は父との関係が遠く離れていることが分かります。「『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』 」(29-30節)兄は父に対し、「あなた」と言う言葉を使っています。29節の「おとうさん」もギリシャ語の原文では「あなた」です。ここでは「あんた」というニュアンスに近いでしょう。兄にとって父は、尊敬や愛の対象ではなく、「仕え」「戒めを守る」対象であり、非常に冷めた関係を見ることが出来ます。これもまた私たちと天の父なる神との関係とも重なります。キリスト教は色々と制約があって面倒だ。ああしてはならない。こうしてはならない。何か不自由な生活を強制されているようだ。こんな神なら信じたくないし、要らない。
しかし、天の父なる神は、そんな私たちに「子よ」と呼び掛けられるのです。例えあなたがどんな霊的な状態であったとしても、あなたをご自身の子として、いつもともにおられることを望まれ、帰ってくるのを待っておられます。そして心から歓迎してくれるのです。あなたが神に立ち返るとき、天において盛大な祝宴が開かれるのです。今、どうぞ主の懐に帰ってきてください。
2012年9月25日火曜日
主は良い牧者
エゼキエル34章11節から16節
11 まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。
12 牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。
13 わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。
14 わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。
15 わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。――神である主の御告げ。――
16 わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。
羊はイスラエル人にとって最も身近であり、生活を支えていた動物でした。その性質は、おとなしく、素直で、従順ですが、反面、愚かで、弱く、迷いやすい人間を表す形容としても用いられています。ここで言う羊とは神によって選ばれ、祝福の民として、神の守りの中にいながらも、神に背き、バビロンに捕囚されたイスラエルの民の姿を表わしています。そんな愚かな羊の姿として描かれている民でありましたが、神は彼らを「わたしの羊」と呼んでいます。そして、主はこのように語られます。「わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。」(16節)国を奪われ、神殿を破壊され、異教の国での暮らしを余儀なくされている、まさに失われた状態である彼らに対し、神はどこまでも憐れみ深く、「捜し」、「連れ戻し」、「包み」、「力づけ」、「敵を滅ぼし」、「正しいさばきを持って養う」と語れるのです。愛と癒しと義と聖であられる神の姿をここに見ることができます。あなたが今主なる神に求めるならば、主イエスの御名を呼ぶならば、神はご自身の姿を表わして下さいます。
2012年9月10日月曜日
最高の捧げもの
ルカ7章36~50節
36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。
37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、
38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。
39 イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。
40 するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。シモンは、「先生。お話しください。」と言った。
41 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
42 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
43 シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。
44 そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。
45 あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。
46 あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。
47 だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」
48 そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。
49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」
50 しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」
神様の目で見るならばすべての人は平等です。すべての人は神によって創られたという点で平等であり、良い人にも悪い人にも雨を降らせるといった点でも平等であり、すべての人のために御子が十字架にかかられたという点でも平等です。しかし、現実社会には平等でない現実があります。富める者と貧しい者、平和ボケしている国に生れた者と平和と言う言葉を知らない国に生れた者、幸せな家庭に生まれた者と争いが絶えない家庭に生れた者・・・ しかし、そのような社会を作り出してしまったのは、もちろん神ではなく人間です。神を呪うのではなく、私たちの生き方こそ問われなければならないのです。
本文に登場する二人の人物、パリサイ人シモンと罪深い女、そのいずれも褒められる人物ではないことがわかります。人を見下し、自分を義とし、外見は敬虔に神に仕えていると言っておきながら、神の独り子を敬わないシモン。そして罪深い女もやはり、その町では知られた遊女であり、男に媚を売り、聖霊の宮である自分のからだをもって神の栄光を現わすどころか、かえって自分の身を傷つけ、罪の生活に陥っていた女。しかし、この二人には決定的な違いがありました。それは身分の差でも性別の差でも、仕事の質の差でもありません。「自分が罪人なんだ」との自覚の差です。神様の目で見るならば、すべての人間は罪人です。「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)のです。ですからこの二人はいずれも神の目から見れば罪人ですが、シモンはその自覚がありませんでした。イエス様の足を洗うことをせず、口づけもせず、頭に油を塗ることをしませんでした。一方、女は罪人であるとの自覚がありました。涙を流して、自分の髪の毛でイエス様の足を洗い、口づけをし、香油を塗りました。香油は当時大変高価なもので、香油を失うことは大変な損失であり、「貧困の道」とも言われていました。しかし、たとえ自分が貧しくなろうとも、そのすべてに勝る価値をイエス様のうちに彼女は見出し、すべてを捧げたのです。
イエス様は平等に憐み深く、また遜る者に対して平等に救いを成し遂げてくださるお方です。この二人の罪人はともにその機会がありました。しかし、「あなたの罪は赦されています。」(48)と救いを宣言されたのは女の方でした。そして優しく、また権威をもってこう語られました。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」(50)罪人であるとの自覚が深まると、恵みもまた増し加わるのです。そして、イエス様にすべてを捧げて、謙遜にお仕えする者になるのです。
36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。
37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、
38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。
39 イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。
40 するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。シモンは、「先生。お話しください。」と言った。
41 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
42 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
43 シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。
44 そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。
45 あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。
46 あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。
47 だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」
48 そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。
49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」
50 しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」
神様の目で見るならばすべての人は平等です。すべての人は神によって創られたという点で平等であり、良い人にも悪い人にも雨を降らせるといった点でも平等であり、すべての人のために御子が十字架にかかられたという点でも平等です。しかし、現実社会には平等でない現実があります。富める者と貧しい者、平和ボケしている国に生れた者と平和と言う言葉を知らない国に生れた者、幸せな家庭に生まれた者と争いが絶えない家庭に生れた者・・・ しかし、そのような社会を作り出してしまったのは、もちろん神ではなく人間です。神を呪うのではなく、私たちの生き方こそ問われなければならないのです。
本文に登場する二人の人物、パリサイ人シモンと罪深い女、そのいずれも褒められる人物ではないことがわかります。人を見下し、自分を義とし、外見は敬虔に神に仕えていると言っておきながら、神の独り子を敬わないシモン。そして罪深い女もやはり、その町では知られた遊女であり、男に媚を売り、聖霊の宮である自分のからだをもって神の栄光を現わすどころか、かえって自分の身を傷つけ、罪の生活に陥っていた女。しかし、この二人には決定的な違いがありました。それは身分の差でも性別の差でも、仕事の質の差でもありません。「自分が罪人なんだ」との自覚の差です。神様の目で見るならば、すべての人間は罪人です。「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)のです。ですからこの二人はいずれも神の目から見れば罪人ですが、シモンはその自覚がありませんでした。イエス様の足を洗うことをせず、口づけもせず、頭に油を塗ることをしませんでした。一方、女は罪人であるとの自覚がありました。涙を流して、自分の髪の毛でイエス様の足を洗い、口づけをし、香油を塗りました。香油は当時大変高価なもので、香油を失うことは大変な損失であり、「貧困の道」とも言われていました。しかし、たとえ自分が貧しくなろうとも、そのすべてに勝る価値をイエス様のうちに彼女は見出し、すべてを捧げたのです。
イエス様は平等に憐み深く、また遜る者に対して平等に救いを成し遂げてくださるお方です。この二人の罪人はともにその機会がありました。しかし、「あなたの罪は赦されています。」(48)と救いを宣言されたのは女の方でした。そして優しく、また権威をもってこう語られました。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」(50)罪人であるとの自覚が深まると、恵みもまた増し加わるのです。そして、イエス様にすべてを捧げて、謙遜にお仕えする者になるのです。
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